スピリチュアリズムは学問ではありません。 霊的真理にもとづく実践的な生き方なのです。 皆さんはスピリチュアリストとして、毎日どのような意識を持って生活していらっ しゃるでしょうか。霊的真理にそって自分の心を高めるための努力をしていらっ しゃるでしょうか。霊的世界に関する知識を、実際の生活にどれほど役立ててい らっしゃるでしょうか……。 ……もし霊的真理を真っ先に知った私達が、真理を頭の中の知識だけにとど めて自分の心の戒めや人生の指針とすることなく、実生活でそれを役立てなか ったとしたら、聖句にある“ブタに真珠”ということになってしまいます。 ……霊的真理は本当はその人間の心を深くし謙虚にするものですが、内省的 な努力がないところでは、スピリチュアリズムの知識も単なる傲慢さや自己主張 の道具となってしまうのです……。 スピリチュアリズムは学問ではないのです。スピリチュアリズムは信仰ではな いと考え違いをされている方が多いようです。シルバーバーチもスピリチュアリ ズムは信仰ではないという言い方をすることがありますが、それはスピリチュア リズムは従来のような信仰(盲信的信仰、事実にもとづかない信仰)とは違う、 ということを言おうとしたのであって、スピリチュアリズムの本質が信仰であるこ とを否定したのではありません。 高級霊訓の思想は、これまで地上になかった高次元の信仰を人類にもたらそう としたことに尽きます。知識はそのための不可欠な手段と考えるべきなので す。シルバーバーチをはじめとする高級霊の説くところは、内省・自己反省であ り、無償の奉仕であり、エゴとの闘いであり、神への祈りであり、 利他愛の実践 であり、全てが信仰的内容なのです。 真理を知って、それだけでよしとするような姿勢に対しては、むしろ、それをエゴ として考えているのです。スピリチュアリズムはキリスト教にもない、さらに高い 次元の真理の上に立つ信仰なのです。 スピリチュアリストとしての霊的実践は、霊優位のための自己コントロールから 始まります。 高級霊訓に示される実践的内容は、大きく次の四つにまとめられるでしょう。 当然これは、私達が魂を成長させるための実践項目でもあります。 @ 霊優位のための自己コントロール(霊主肉従の努力) A 苦しみへの正しい対処 B 利他愛の実践(人を正しく愛する) C 霊的世界とのストレートな交わり(瞑想・祈り) この四つの中に、霊訓によって明かされた魂の成長(霊的成長)のための実 践内容が全て含まれています。 @の霊優位のための自己コントロール(霊主肉従の努力)とは、物質中心の 生き方をしないということです。地上生活は魂を成長させるためにあるのです が、地上では肉体を持っているため霊の心と本能的な心が葛藤し、どうしても 本能的な思いに引きずられがちになります。が、魂の成長は、霊の心が本能 (物質欲・肉欲)をコントロールした霊優位の状態であってはじめてなされるもの です……。 霊の意識を優位にして本能的思いをコントロールすることを“霊主肉従”と言い ますが、この霊主肉従こそ、魂成長のための大前提です。けれども地上生活を 送る大半の人々は、よほどの厳しい内省的闘いをしていない限り、“肉主霊従” (霊主肉従の反対)という状態に陥ってしまいます。 そうした状態では、物質欲だけに翻弄され、エゴ的思いが心を支配するように なります。それは霊的価値から見ると、本能だけで生きる動物と等しいことなの です。地上の人間は霊主肉従であってこそ、はじめて動物と違った崇高な価値 を持てるのですが、残念なことに、大半の人々は肉主霊従の状態にあることが 多く、地上生活で積極的に魂を高めることができません。 スピリチュアリストとしての私達が魂の成長をなすためには、自分が今、霊主 肉従の状態なのか肉主霊従の状態であるのか、ハッキリと知らなければなりま せん。自分の心の状態をみきわめる敏感な感性がぜひとも必要なのです。 私達が霊主肉従の状態にある時には、十分な霊的エネルギーが受け入れら れ、心はすがすがしく、清らかな思い・愛の思い・大きな心が持てるようになりま す。 反対に肉主霊従の状態にあると、心は暗くなり、重苦しくどんよりとして、スッキ リとすることができなくなります。また人に対する批判的な思いが湧き上がり、 自分の利益だけを先に求めるようになります。 たとえ真理を知った私達であっても、意識的に高い心境を持ち続けようと努力 しない限り、動物と等しいところに堕ちてしまうのです……。 |