◇ニューズレター13号 (抜粋)
2001年4月



目 次
地球という霊的進化の惑星に住む私達
完全から遥かに遠い惑星地球と地球人類 
・霊的成長を目的として、「地球という惑星」に生まれた私達
・きわめて未進化なレベルの地球人類
・暗黒の惑星に住む私達地球人
・他の惑星と地球の違い
・地球上のすべての問題は、「霊性」の低さゆえに生じること
 ・スピリチュアリズムは、地球上のすべての問題を解決する最終手段
・スピリチュアリズムによって始まった、本格的な霊性進化の道
・永遠性・永続性のあるものは、「神の摂理」と「霊的真理」だけ
・私達スピリチュアリストの使命 
常に理想を目標にして努力するのが、スピリチュアリズムの歩みです。
霊的人生における理想追求と失敗、再挑戦 
・地上人が完璧な歩みができないことを知っている霊界人
・実行不可能と知りつつ、高いハードルを示す
・低い物質世界に閉じ込められている地球人類
・癒しを求めるより、自分自身に厳しくあることが優先
 ・高級霊の苦労を無駄にしない
・真剣な歩みと自己への絶望
・聖と俗の間・霊と物質欲の間を揺れ動きながら
・失敗から学び成長する
  
 
スピリチュアリズムと古神道について
浅野和三郎の和製スピリチュアリズムからの脱却 
(1)古代日本人の自然信仰(シャーマニズム)と古神道
 ・神道はシャーマニズムを排した人工の宗教
 ・現代におけるシャーマニズムの表面化と興隆

(2)神道の成立と古神道の復活
 ・神道の八百万(やおよろず)の神々は、純粋な霊的存在ではない
 ・神道の祭司長でありながら、自ら仏教の僕たらんとした天皇達
 ・仏教に従属してきた神道
 ・古神道の発生と平田篤胤(あつたね)
 ・古神道のその後の動き
 (3)浅野和三郎の「和製スピリチュアリズム」について
 ・浅野和三郎と古神道
 ・浅野流スピリチュアリズムの再生観の問題
 ・日本のスピリチュアリズムの創始者としての大きな功績
 ・スピリチュアリズムの本質を正しく理解できなかった浅野和三郎
 ・モーゼスの『霊訓』にまで、たどり着きながら
 ・これからの日本のスピリチュアリズムの歩み
       浅野和三郎を乗り越えて
 ・より高い霊的世界を求めて



ニューズレター




地球という霊的進化の惑星に住む私達
完全から遥かに遠い惑星地球と地球人類
 

霊的成長を目的として、「地球という惑星」に生まれた私達
 シルバーバーチは  「人間は霊的に成長することを目的としてこの世に生まれてきます。成
長また成長と、いつまでたっても成長の連続です」と述べています。この成長の歩みは、私達
の現在の地上人生ばかりでなく、霊界における何千年・何万年・何十万年にわたる生活におい
ても当てはまるのです。

 永遠に成長し続けるその果てには、いつか完璧で完全な世界に至ることができるのでしょう
か。シルバーバーチの言うところでは、人類がそうした完璧な到達点に至ることはないというこ
とです。

仏教で言う悟りの最終極点とされるニルバーナは実際には存在せず、単に論理上考えられた
ものに過ぎません。私達人類は、無限に進化し続ける中で、無限の大霊(神)に近づいていく
「霊的存在」として生まれたのです。

終わりのないひたすら進化する存在として自分が今生きているということは、何と神秘的なこと
でしょうか。

 シルバーバーチ自身も、なぜ大霊が、人類をどこまでも進化する存在として造られたのかと
いうことについては  「なぜそういうおしまいのない計画を神がお立てになったのかが分かり
ません。いろいろ私なりに考え、また助言も得ておりますが、正直に言って、これまでに得たか
ぎりの解答には得心がいかずにおります。」(シルバーバーチ6・127)と述べています。


きわめて未進化なレベルの地球人類
 人類の進化を考える際、こうしたこととは別に、もう一つ大切なことがあります。それは地球
人類の至っている「霊的進化のレベル」の問題です。現在の地球ならびにそこの住人である私
達地球人の霊的レベルが、どの程度のものであるのかということです。

大変ショッキングなことですが、シルバーバーチや他の高級霊訓では「生命体のいる天体(惑
星)は宇宙に無数に存在しますが、その中で地球より進化のレベルの低いものは他に一つし
かない」と言っています。 (シルバーバーチは語る・202)

すなわち地球は、全宇宙に数え切れないほど存在する惑星の中で、霊的進化のレベルにおい
て下から2番目の低さであると言うのです。私達の住む地球という惑星は、宇宙の中でほぼ最
下層に近い惑星だということです。

*シルバーバーチは別のところで  「太陽系の中で、地球より劣る惑星は火星だけである」と
述べています。従って地球や火星を含む太陽系は、全宇宙の中で最も低い惑星系ということ
になるのかも知れません。

 私達は本当に、それほど低い世界に住んでいるのでしょうか。これはなかなか納得しがたい
ことですが、シルバーバーチやインペレーターという最高レベルの高級霊が同様の内容を述べ
ているところから判断して、事実だろうと思われます。

 地球は他の生命体の存在する惑星と比べ、不完全性の大きな天体であり、物質に極端に偏
り、霊性がほとんど見られない最低に近い惑星なのです。私達地球人類は、全くの「井の中の
蛙(かわず)」と同じで、これまで自分達がどれほど低い存在であるのかを知ることもなく、歩ん
できたのです。

わずかな科学技術の発達を根拠に、さも知性ある存在であるかのように思い込み、高度の文
明を作り上げてきたと錯覚してきました。また地上の宗教の中には、聖書の言葉だけを教条的
に鵜呑みにし、地球以外には生命体も文明も存在しないと、頑(かたく)なに信じ込んでいる多
くの人々もいます。 


暗黒の惑星に住む私達地球人
 霊性進化の程度が進んだ天体から見れば、地球はまさに暗黒の世界であり、そこに住む地
球人は、未熟で野蛮な程度の悪い人類の集まりなのです。霊界の人々は地上人類の未熟さを
当たり前のこととしていますが、他の天体の人々も地球人に対して同様の思いを持っていると
いうことです。  


他の惑星と地球の違い
 地球と同じ物質世界に属しながら遥かに進んだ霊的レベルにある他の天体の人々と、私達
地球人との違いはどこにあるのでしょうか。進化した天体の人々と私達との違いは、端的に言
えば「霊性の差」ということになります。

地球人類の霊性は全く未熟なレベルにあり、そこには、ほんのわずかな「霊の光」しか見られ
ません。私達の今住んでいる地球は、まさに霊的な暗黒世界なのです。  


地球上のすべての問題は、「霊性」の低さゆえに生じること
 地球上の大半の問題は、地球と地球人の「霊性」が最低レベルにあることから生じていま
す。戦争・飢え・争い・エゴ・貧困・不正・不公平・虐待・環境破壊……、地球上にはこうした数え
切れないほどの問題が山積しています。   

 その原因はさまざまに言われますが、本当は一言で簡単に言い表すことができます。それ
は、地球人類がトータルとして、肉主霊従・物主霊従の状態にあるということなのです。 地球人
類が霊性進化の出発ラインにまで、今なお至っていないということなのです。

特定の独裁者の暴挙やエゴが不幸を引き起こすことは事実ですが、本当はそれも、地球全体
の持つ本質的な問題である「肉主霊従」という物質主義が表面に現れたことに過ぎません。地
球上のもろもろの不幸・不正は、肉主霊従・物質支配という根源的な原因から、すべて派生し
ているのです。

他の天体においては、戦争も虐待も環境破壊も不公平も貧困もありませんが、それは「霊優
位」という神の摂理が、その惑星とすべての住人の支配理念になっているからなのです。まさ
に地球は、下から2番目という最低に近い惑星なのです。


スピリチュアリズムは、地球上のすべての問題を解決する最終手段
 地球上の問題を解決するには、人類の霊性における根本的な変革  「霊主肉従の確立」す
なわち「霊性革命」以外にありません。それができないうちは、どのような方法をとっても途中で
挫折したり、新たな問題が生じて失敗することになります。

戦争・紛争を防ぐために、いかほど政治的手段を講じても根本的な解決はできません。

 スピリチュアリズムはまさに、そうした地球上のすべての問題を解決する唯一の方法・最終
手段なのです。 物質支配の人類歴史を、初めて根本から変革する使命を持って興されたもの
なのです。

スピリチュアリズムが世界の隅々まで広がり、地球人類の共通の理念にならない限り、地球上
のあらゆる悲惨さをなくすことはできません。いくら戦争反対の理想を声高に叫んでも、それが
実現することはないのです。従ってもうしばらく、地球はこうした暗部と不正を引きずったまま歩
んでいかなければなりません。
 
人類史上多くの宗教が興され、人類の霊性が啓発され、霊的進化が進められてきました。しか
し、たとえその教えが高尚なものであっても、それが全人類の支配理念にまで発展し得なかっ
たのは、地球人類が全体として「肉主霊従」の状態に閉じ込められていたからなのです。

そのため優れた教えが示されても、それが力を持つことはなく、いつの間にか片隅に追いやら
れ消滅してきたのです。物質文明はどんどん発展しても、それに見合った霊的発展がなされな
かったのは、地球が全体として物質支配の下にあったからなのです。

このことが、まさに地球全体にとっての最も本質的な問題だったのです。「物質主義」とそこか
ら派生する「利己主義」が、地球人類の支配理念として地球を引きずってきたからに他なりま
せん。


スピリチュアリズムによって始まった、本格的な霊性進化の道
 「霊優位・霊主肉従」という霊的進化の大原則が、これまで地球に確立されたことは一度とし
てありませんでした。そうした悲惨な状況が続く中で、19世紀半ばに至って、ようやく「スピリチ
ュアリズム」の地上展開が始められました。

それによって、地球と地球人類全体を霊優位にするという霊的進化の道が、初めて開かれる
ことになりました。そして霊界からの全力を挙げての計画的な働きかけによって、20世紀後半
に至り、地球が将来的に「霊主肉従」の状態となる趨勢が決定されたのです。

すなわち地球規模において、「霊優位」の世界が実現するということが明らかになったのです。
惑星地球の霊性進化という大きな観点から見たとき、これまでの人類歴史は、地球全体の本
格的な霊的進化の第一歩となる"現在"に至るためにあったのです。

それに向けて、すべてが費やされてきたということです。スピリチュアリズムの到来によって、
惑星地球は初めて、本格的な霊性進化の道を歩み出すことができるようになったのです。   
 

永遠性・永続性のあるものは、「神の摂理」と「霊的真理」だけ
 先のニューズレター(2001年・新年号)では、500年後の地球がどれほど素晴らしい世界に
なっているのかを予測しました。しかしそうした未来の地球も、実は他の進化した天体から見た
ときには、まだまだ未熟なレベルの惑星に過ぎないのです。   

 5千年先、1万年先の地球上に存在するものは、霊的真理にそった生き方・霊的進化という
不変の歩みだけです。地球上において唯一、永遠性・永続性のあるものは、「神の摂理」と「霊
的真理」だけなのです。


私達スピリチュアリストの使命
 真っ先にスピリチュアリズムに出会った私達スピリチュアリストは、惑星地球にあっては暗黒
の世界を照らす"灯台"のような存在ですが、十分な「光」を放つには、まだまだ力が乏しいこと
も事実です。周りはいまだ深い闇に包まれているために、その光が地球全土を照らすには、さ
らに多くの時間が必要とされます。

 スピリチュアリズムが世界に波及し、霊的光が地球上を覆うにつれて、今よりずっと楽に「霊
的人生」を歩めるようになります。何百年か後になれば、高いレベルで「霊的真理」が実践され
るようになるでしょう。しかし私達が地上に生きている間には、それを期待することは不可能で
す。 

私達は今この時代に地上世界にあって、スピリチュアリズムという「霊的光」を、さらに広める
ための使命が与えられているのです。時代を切り開く者としての貴い犠牲が、私達に期待され
ているのです。



常に理想を目標にして努力するのが、スピリチュアリズムの歩みです。
霊的人生における理想追求と失敗、再挑戦 



地上人が完璧な歩みができないことを知っている霊界人
 きわめて霊的に低い私達地上人が、完全な歩みをなすことは到底不可能です。そして、それ
は霊界から私達を導く立場にある高級霊達においては周知のことなのです。「地上の人間にと
って完璧な生活を送ることは可能でしょうか」との質問に、シルバーバーチは次のように答えて
います。


「それは不可能です。が、そう努力することはできます。努力すること、そのことが性格の形成
に役立つのです。」                  (シルバーバーチ5・191)


 スピリチュアリズム推進の任にあたる霊界の人々は、地上人が高い霊的歩みを実行するこ
との困難さを承知した上で、これまでずっと導いてきました。霊界の高級霊においては、地上
人が、霊界人や他の進化した天体の住人に近い歩みができないことは初めから承知している
のです。

地球という極めて物質性が強く支配し、霊性の影響力を受けつけることのできない世界に住
み、そこで肉体を持って生きる地上人が、すぐに理想通りの高い「霊的人生」を送れるとは思っ
ていません。


実行不可能と知りつつ、高いハードルを示す
 このように霊界の高級霊は、地上人に高い理想を説いても実行できないことは十二分に知っ
ていますが、それを承知の上で、あえて高いハードルを示しています。これは私達地上人に、
「可能な限り成長してほしい」という親心のような深い愛情があるからです。

同時にそれは、「徹底して自分に厳しくあれ」という霊的先輩としての励ましでもあります。シル
バーバーチは次のように言っています。


「完全であるように努力しなさいと言っているのです。それが地上生活で目指すべき最高の理
想なのです。」                  (シルバーバーチ5・191)



「私たちも、どうせ今すぐには実現できないと知りつつ、理想を説いております。もしも私たちが
努力目標としての理想を説かずにいたら、与えられた使命を全うしていないことになります。目
標の水準は高めないといけません。低くしてはいけないのです。」              (愛の
摂理・148)



低い物質世界に閉じ込められている地球人類
 霊的真理は、物質に支配された私達地球人類にとっては厳しいものに感じられます。時には
単なる教訓として、わざわざ厳しく述べられたのではないかと考えてしまうかも知れません。

しかし霊界の住人、あるいは惑星地球より進化が進んでいる天体の住人から見れば、霊的真
理によって示された内容は決して特別なことではありません。「霊的成長」をなすためには当た
り前のことに過ぎないのです。

それがとてつもなく実現不可能なことのように思われるのは、私達が地球という暗黒の世界に
閉じ込められているからです。物質に縛られた低い世界を当然とし、それ以外の世界はないと
思い込んでいるからなのです。

そうした私達は、まさに「井の中の蛙(かわず)」と同じです。小さな地球という世界の中で、あ
れこれ自分達なりの価値観を主張し、自分達なりの考えを勝手に言い合っているのです。  
 
 
癒しを求めるより、自分自身に厳しくあることが優先
 高級霊の霊界通信によってもたらされた「霊的真理」を、自分なりに解釈したり、歪曲(わいき
ょく)して都合のよいところだけを取り上げるというようなことをしてはなりません。人類の霊的
成長を促すために与えられた霊的真理には、実行することが困難に思われたり、耳に痛い内
容があるのは当然です。

どんな人間でも他人から優しくされることを願います。厳しさよりも、優しさと安らぎを望みます。
注意されることよりも、今の自分をそのままで良しとしてほしいのです。自分をあるがままに受
け入れ、優しく労(いたわ)ってくれるのが心地よいのは、人の常なのです。

しかし、そうした優しさや慰めだけを求める在り方は、霊的成長を促すものではありません。そ
れは心が傷つき正常さを失った人においてはやむを得ないとしても、真理を知った私達にあっ
ては、乗り越えるべきことなのです。

 霊的成長をなすためには、自分に厳しいことであっても、それを正面からしっかり受け止めて
いくことが必要です。たとえ自分には克服し難いことのように思われても、それを全力で立ち向
かうための目標として、いつも意識していなければならないのです。

シルバーバーチの言うように、常に「高い目標」に向かって努力することが必要なのです。

 現状に自己満足したり、あるいは今流行している"心の癒し"を真っ先に求めるようなところ
からは、霊的進歩は得られないのです。現在は癒しがブームとなっていますが、そこには大き
な落とし穴があることを知っておかなければなりません。


高級霊の苦労を無駄にしない
 霊的真理を知ったスピリチュアリストにおいては、常に可能な限り高い目標に向けて努力す
べきなのです。そうでなければ、高級霊が苦労して地上に真理をもたらした意味がなくなってし
まいます。

霊界の人々の苦労を無駄にすることになってしまいます。真理を知った後のたかだか30〜50
年に過ぎないわずかな人生は、一途に真っすぐに「高い目標」を目指して歩むのが一番よいの
です。

いまだ霊的真理を知らない人々に対しては寛容であるべきですが、自分自身に対しては厳しく
臨むというのが、最も賢明な在り方なのです。

 「霊的真理を知ったことについては、それ相応の責任が伴います」と、シルバーバーチは繰り
返し述べています。「霊的真理」という明確な知識を手にした私達は、それを知らない世間の
人々と同じような歩みでは、良しとされません。

「自分なりに精一杯やればよい」というのは確かにその通りですが、この言葉を、自分自身の
努力不足や怠慢さの言い訳にしてはいないでしょうか。 闘って負ける者は、闘いを避けて逃げ
る者より、はるかに崇高な霊的人生を歩んでいるのです。


真剣な歩みと自己への絶望
 自分自身に高いハードルを課すようになるにつれて、霊的真理が私達に要求する厳しさが理
解されるようになります。さらにそれを実践に移すと同時に、スピリチュアリズムにおける霊的
人生とは、"修行"そのものであることが実感されるようになります。

真理に対する単なる知識レベルの関心を卒業して、それを日常生活の指針として自らを従わ
せようとする段階に至ると、真理の深さと厳しさが迫ってくるようになります。

いったん霊的真理の実践の段階に至った人は、単なる知識レベルの学習会や霊的知識の収
集・心霊現象などには無意味さを覚え、馬鹿馬鹿しく感じられるようになります。それは明確な
霊的進歩の一つの目安と言えます。

 霊的真理を真剣に実践しようとすればするほど、それに比例して自分の醜さ・足りなさを強く
自覚するようになります。何度も同じ失敗を繰り返し、なかなか成長することができない自分の
弱さを思い知らされるようになります。

そして霊的真理が圧力に感じられ、「自分はスピリチュアリストにふさわしくない」と考えるように
なるかも知れません。時には、同じ失敗ばかりを繰り返しながら、いつまでたってもそれを克服
する力のない現実を前にして、自分に絶望するようなこともあるでしょう。

内面の闘いに疲れ果て、闘いを放棄し、惰性で生活を送るようになっていくかも知れません。
 真剣になればなるほど、誠実にスピリチュアリズムの道を実践しようとすればするほど、誰も
がこうした苦しみや絶望を体験しなければなりません。 まさにこれこそが、地球という霊性進化
の未熟な惑星に住む地上人の宿命なのです。


聖と俗の間・霊と物質欲の間を揺れ動きながら
 いったんは世俗の生活に戻りかけてしまったものの、何かの拍子にこれではいけないと思い
立ち、「霊訓」をもう一度読み返し、気力を取り戻すことになります。誰もがこれまで、何度かこ
うした体験をしたことがあるはずです。

このように私達の現実の歩みは、聖と俗との間を揺れ動きながら進んでいくものなのです。 結
局、地球という物質性の支配する未熟な惑星に住む限り、物欲に翻弄されることは避けられま
せん。

そしてその中で自分の醜さを実感し、同時にそれによって、「スピリチュアリズム」という聖なる
世界の素晴らしさを自覚しながら歩んでいくことになります。あまりにも霊性進化の度合いが低
い地球にあっては、霊的向上に伴い、聖と俗とのギャップが極端に大きくなっていくのです。

 私達としては、どこまでも清らかさを求める努力を続けなければなりません。結局、私達は幾
度も失敗を重ねながら、それでも思い直してより高い世界を求め、頑張り続けるしかないので
す。地球という進化の低い惑星での生活とはそういうものであると、心を決めなければならない
のです。シルバーバーチも  「奮闘努力せずして、どうして成長が得られるのですか」と言って
います。


失敗から学び成長する
 もう一つ私達がしっかり覚えておかなければならないことは、地上世界は、失敗から学ぶ所
であるということです。多くの失敗を体験して、それを「教訓」とすることができれば、その失敗
は無駄ではなかったということになります。 

私達に求められているのは、失敗しないことではなく、失敗から学び、それを糧とし、一歩また
一歩と上昇していくことなのです。 常に失敗から学びながら、努力し続ける前向きな姿勢が必
要なのです。

 5年前、10年前の自分の姿を思い返すと、誰もが恥ずかしいような体験や失敗をしていま
す。この世の人々の判断からすれば取り返しのつかないような過ちをしでかし、それを思い出
すたびに、自分の人生が終わってしまったかのように感じている人がいるかも知れません。

しかし地上における失敗は、すべて学びの材料であり、その体験によって真理への理解を深
め、より高い人生を送るためのきっかけに過ぎません。

 私達のこれまでの人生は、今この時のためにあったのです。今、皆さんの心の中心に  「ス
ピリチュアリズム普及のために人生を懸けよう」との思いがあるならば、ここに至るまでの歩み
のすべてが、最も高い次元において実を結んでいることになります。まさに、これまでのすべて
が準備だったのです。


「過去はもう過ぎ去ったのです。これまでに犯した間違いはお忘れになることです。皆さんは間
違いを犯し、それから学ぶために地上へやって来たようなものなのです。過ぎ去ったことは忘
れることです。大切なのは今現在です。今、人のためになることをするのです。」        
 (シルバーバーチ9・193)


 今この時に、心を改めればよいのです。霊界のことを考えれば、地上のいかなる失敗も取る
に足りないものなのです。 私達に必要なのは、より高い目標に向かって努力を始めようとする
決心だけなのです。

 今、真っ先にスピリチュアリズムと出会い、高級霊訓を手にすることができた私達には、より
高い目標を目指して邁進していく姿勢が求められています。自分なりにやればよいというような
甘い姿勢が必要とされているのではありません。

いまだ霊的真理を知らない人にあっては、その人なりに精一杯やれば良しとされるでしょうが、
私達のように高い目標を示された者においては、どこまでも理想を求める真剣さが要求される
のです。「霊的真理」の重要性が理解できるということは、「霊訓」の示す内容を理想として奮
闘・努力すべきということなのです。


スピリチュアリズムと古神道について    
浅野和三郎の和製スピリチュアリズムからの脱却



 よく、スピリチュアリズムと「古神道」が似ているかのように述べられることがあります。古神道
すなわち「神(かん)ながらの道(惟神の道)」は、霊的な自然性を持ち、スピリチュアリズムに
近い理想的な信仰形態であると言うのです。

こうした見解に対し  「本当に古神道とスピリチュアリズムを、共通のものとして考えてもよい
のでしょうか」との質問が多く寄せられています。

 結論を先に言いますと、古神道とスピリチュアリズムを同一視することは明らかに間違ってい
ます。 古神道とスピリチュアリズムの共通性を強調し過ぎることは、事実と大きく懸け離れてい
ます。

そもそも「古神道」なるものが実際に存在したかどうかさえ明確でないにもかかわらず、それが
日本人の持つ優れた精神性であると言うことは独断論に過ぎません。単なる推理の産物でし
かないものが、一部の人々の中で、さも歴史的事実であるかのごとく受け取られ、さらに、それ
がスピリチュアリズムと類似したもののように考えられてしまっているのです。

 古神道という発想は、江戸時代の国学者の"復古願望"から作り出された一つの思想に過ぎ
ません。この後でも述べますが、神道の原初形態を「古神道」と言うならば、それは古代日本
人の「アニミズム・シャーマニズム信仰」に他ならないことになります。

そうした自然宗教が部分的にスピリチュアリズムと共通性を持っているとしても、本質的な点で
スピリチュアリズムと一致しているとは言えません。

 少し考えれば、太古の人々の中にどれほどの「霊的真理」への認識があったのかは明白で
す。古代人が霊的世界について、スピリチュアリズムのような正確な知識を持っていたとは到
底考えられません。

確かに死後の世界を認め、霊魂の存在を認め、霊との交流が可能であるとする点については
スピリチュアリズムとの共通性が認められますが、スピリチュアリズムの最大の本質である「霊
的成長」という点については、全く無に等しいと言わなければなりません。

古代日本人が持っていたと思われる素朴な霊魂観は、世界の多くの地域においても等しく見ら
れるものであり、決して日本独自のものとは言えません。

 スピリチュアリズムは、人類の霊性ならびに知性が進化した結果、時が到来したために計画
的に地上世界にもたらされたものであり、古代の自然信仰とは本質的に異なるものなのです。

日本のスピリチュアリズムにおいて「古神道」が必要以上に強調されているのは、日本のスピ
リチュアリズムの創始者である浅野和三郎が、スピリチュアリズムを古神道と関連づけたから
です。

この浅野和三郎によって作り出された「和製スピリチュアリズム」が、現代にまで影響を及ぼし
てきました。浅野による和製スピリチュアリズムを、日本のスピリチュアリズムの独自性のよう
に見なす向きがありますが、その中には多くの問題点があります。

時にはそれは、スピリチュアリズムの正しい理解にとってマイナスとなるような弊害さえ引き起
こしています。

 今日まで、浅野和三郎の和製スピリチュアリズムに対する思想的功罪が論じられることは、
ほとんどありませんでした。現在、日本のスピリチュアリズムは初期の段階を抜け出て、新たな
飛躍の時代に入ろうとしています。そうした時代を迎え、一刻も早く、これまでの偏狭なスピリチ
ュアリズム観を拭い去ることが急務とされています。

今回は、こうした日本のスピリチュアリズムの抱える思想的問題点を取り上げることにします。
「古神道」と、浅野和三郎の「和製スピリチュアリズム」を中心に学んでいきたいと思います。

  

(1)古代日本人の自然信仰(シャーマニズム)と古神道


―略―
神道はシャーマニズムを排した人工の宗教
 一般に神道は、古代日本のアニミズム・シャーマニズムという原始宗教から発達した自然宗
教と考えられています。従って神道の中には、こうした原初的な信仰の要素が豊富にあるよう
に思われがちです。

しかし事実は全く逆で、現在の神道の中には、シャーマニズム的要素はほとんどと言ってよい
ほど見られません。卑弥呼(ひみこ)や、神話に登場する天宇受売命(あめのうずめのみこと)
や神功(しんぐう)皇后は明らかに女性シャーマン(霊媒)なのですが、7世紀に朝廷によって確
立された律令神道の中には、こうしたシャーマン(霊媒)が存在する場所はどこにもありませ
ん。

それどころか神社の中で霊媒をすることは禁止されるようになります。死者の霊を呼ぶことは
タブーとされました。現在神社で見られる巫女(みこ)は、かつては恐山(おそれざん)のイタコと
同様な女性シャーマンだったのです。

シャーマニズムにおける必須の条件は、あの世のスピリットと交信する「シャーマン」の存在で
すが、神道は、そのシャーマン(霊媒)を排除したところに成立しているのです。 

 神道成立以前には、一族の支配者は政治権力者であると同時に、部族内における中心的シ
ャーマンとして宗教的な権威を持っていました。天皇はかつては最高のシャーマンとして、宗教
的権威と政治的権威という二つの権威の頂点に立っていました。

時代が過ぎ、やがてシャーマンは政治的営みの中で不要な存在・厄介な存在となっていきま
す。巨大化した政治機構においては、複数のシャーマンの存在は、むしろ内部の意見の一致
を崩すことになり、邪魔者となるのです。

そして律令神道の成立とともに、シャーマンは表舞台から切り離され、その代わりに神主・神職
という霊感を持たない神との名目的仲介者が力を持つようになります。

 このように現在見られる神道は、シャーマニズムを意図的に排斥したところに成立した宗教
と言えます。 シャーマニズムは「霊魂説」という明確な死生観に立っていますが、それを排除し
た神道からは、大きな霊的要素が失われることになりました。

当然のこととして、あの世の霊との直接的交わりという、生き生きした霊的実感は消え去ること
になりました。   


現代におけるシャーマニズムの表面化と興隆
 最近の日本人は宗教性を失ったと言われます。また多くの日本人は無宗教であるとも言わ
れます。しかし、こうした発言の際に想定されている「宗教」とは、既成の宗教(仏教や神道)の
ことです。

確かにそうした表の宗教に対する日本人の信仰は大きく後退しています。とは言ってもそのこ
とが、日本人が宗教性を喪失してきたことを示すものではありません。現代の日本人が従来の
宗教に対して魅力を感じなくなり、距離を置き始めたということに過ぎません。

実はこうした既成宗教の後退は、ある意味では日本人の「霊性復興」にとって嬉しい動きとも
言えるのです。

 シャーマニズムという純粋な霊魂観に対する日本人の関心は、決して後退していません。従
来の宗教の衰退に伴い、これまで隅に追いやられていたシャーマニズムが、再び表舞台に姿
を現し始めています。

霊界の実在や霊との交わりを教義の中心に掲げる新新宗教やニューエイジが、急激に台頭し
てきました。また多くの若者が心霊世界に関心を示すようになってきました。これらはまさに、
現代における「シャーマニズムの復活」というべき現象なのです。 

日本人の中に流れて絶えることのなかったシャーマニズムという霊的信仰が、スピリチュアリズ
ムの到来に時期を合わせて現代社会に蘇(よみがえ)ってきたということなのです。

  

(2)神道の成立と古神道の復活


―略―
神道の八百万(やおよろず)の神々は、純粋な霊的存在ではない
 一般的に神道は、原始宗教であるアニミズムから発展してきた多神教と説明されます。神道
をスピリチュアリズムと結び付けたがる人々は、古典に示された高天原(たかまのはら)は、霊
界の高級神界を示し、『神代記』における八百万の神々は、高級天使や守護天使の様子を述
べたものであると言います。そして神道のバイブル的存在である『記紀』には、霊界の奥義が
記されていると説明します。

 しかし『記紀』の中に登場する八百万の神々の多くは、朝廷が支配したかつての豪族の守護
神を政治的意図をもって再登場させたものであり、アニミズムにおける純粋な霊的存在(スピリ
ットや死霊)とは全く関係がありません。

神道の八百万の神々の多くは、アニミズム信仰の中で純粋な信仰の対象とされてきた自然霊
(天使・妖精)ではなく、政治的に作られた架空の人工的な神々なのです。天皇家の皇祖神・守
護神である天照大神が、古代の太陽信仰に由来することは明白です。

太陽神は、政治的な支配力を誇示するに最もふさわしい神です。大和政権の成立以前には、
他にも太陽信仰をしていた部族が各地にいました。その名残を残す神社では、天照大神は女
性神ではなく、男性神として祭られているのが普通です。

太陽が男性で、月が女性とするのが一般的なのですが、どういうわけか古代大和朝廷では、
天照大神という天皇家の守護神は女性神になってしまっています。

 いずれにしても実際の霊界には、皇祖神に相当する天照大神という神または天使は存在し
ません。日本国全体に対する守護・指導の任に当たっている天使は現実に存在しますが、そ
れは神道で言われる天照大神とは全く無関係なものです。

神道の祭司長でありながら、自ら仏教の僕(しもべ)たらんとした天皇達
 名目上は神道の祭司王としてトップの立場にあり、そして天照大神の直系の子孫を名乗りな
がら、歴代の多くの天皇達にとって、律令神道は真に心からの信仰対象ではありませんでし
た。

そのことは歴史が明らかにしています。多くの天皇達にとっての信仰対象・心の拠りどころは
圧倒的に仏教でした。神道の祭司王たる天皇が、自らを仏教の僕とし、これに帰依するとい
う、神道にとって最も屈辱的なことが、たびたび行われてきました。

こうした大きな矛盾が、明治時代に至るまで続いてきたのです。代々の天皇が、死後は京都の
泉湧寺(せんにゅうじ)に祭られてきたという事実は、天皇が、いかに死後の世界の問題を仏
教に頼ってきたのかを示すものです。
 
人間が宗教に求めるものは「死の問題」に尽きると言っても過言ではありません。神道が人工
の宗教であり、最も肝心な霊的要素や死の問題を捨て去ったために、祭祀王として神道のトッ
プにあり神の直系の子孫とされる天皇も、死に脅え、その救いを仏教に求めざるを得なかった
のです。

仏教に従属してきた神道
 律令神道はシャーマニズム性を排除することによって、霊と死後の世界との係わりを自ら放
棄しました。さらに平安時代初期になって「けがれ信仰」が神道の中に導入されることによっ
て、神道はいっそう死者との係わりを避けることになりました。

そして人々は、死後の救いを神道に期待することができなくなりました。こうしたことが神道を
決定的に無力なものにさせることになります。死後の救いや死への恐怖からの救いは、人間
にとって最も重要で深刻な問題ですが、そうした問題に対して神道は、何の力も手立ても持ち
合わせていませんでした。

こうして神道は、一般の人々にとって魅力の乏しいものになり、現世利益と現世の幸福を祈願
するだけの儀式宗教になってしまったのです。

 このような中で人々は、仏教に死後の救いを求めることになります。すっかりシャーマニズム
化され、「先祖供養」によって死後の救いの専属権を得ていた仏教は、人々の心をしっかりと
繋(つな)ぎとめていくことになります。

明確な死後観と救済観を持った仏教は、精神世界の権威となり、神道は必然的に仏教に従属
する存在になっていったのです。神道の最高の地位にあり、天照大神の直系の子孫であるは
ずの天皇が、心の拠りどころを仏教に求め、これに帰依してきた歴史的事実は、神道が仏教
に隷属してきた現実を端的に示しています。

日本人の宗教は歴史的に神仏習合であり、神道と仏教の二重信仰と言われますが、その関
係は対等なものではなく、仏教が神道を支配し、圧倒的に仏教サイドに偏ってきたのが現実で
す。こうした状況が明治維新に至るまで続いてきたのです。


古神道の発生と平田篤胤(あつたね)
 江戸時代中頃に、国学者による日本史・古典の研究を通して  「仏教や儒教などの外国の
思想が渡来する以前の日本人の純粋な精神を明らかにしよう」という動きが起こりました。そ
れに伴い神道の世界においても  「神仏習合・神儒習合といった状況を是正し、日本古来の
純粋な神道を取り戻そう」という動きが生じました。

日本にはもともと純粋な神道があったのだが、それが十分に発達する前に仏教などの外来宗
教が入ってくることによって、神道はそれらに従属することになったと考えたのです。そして神
道から、仏教や儒教の影響を取り除こうとしました。こうした経過を経て生まれたのが「古神
道」、あるいは「復古神道」と呼ばれるものです。

その復古神道の大成者が平田篤胤だったのです。そうした国学者の憂国の熱意には共感で
きる点があるとしても、仏教や儒教の渡来以前に日本独自の純粋な精神があったという前提
は、単なる空想論に過ぎないことは明らかです。

仏教渡来以前の日本に溯れば、そこに存在するのは日本独自の信仰や精神ではなく、「シャ
ーマニズム」という地上人類に共通する信仰世界なのです。篤胤の学問は、空想を前提とした
ところでの道の探求であり、独断によってのみ進められた仮説に他なりませんでした。とは言っ
ても、篤胤によって唱えられた思想のすべてが無意味であったというわけではありません。
 
それまでは霊魂の問題・死後の世界の問題は、仏教の独占物であり、神道がこれを扱うこと
はありませんでした。しかし篤胤は、この問題を彼の神道の中心に据え、神道の立場からの死
後観・来世観を確立しようとしたのです。これが有名な、「幽冥論(ゆうめいろん)」と呼ばれるも
のです。

ここにおいて初めて、神道が"死生観"を持った宗教たり得ることを示したのです。この神道の
立場で明らかにした霊魂観・死後世界観・来世観という特異な思想が、その後、大きな影響を
残すことになります。

この篤胤の「幽冥論」は、神道の中に排除されていた「シャーマニズム」を、もう一度復活させる
ことを意味します。それは、これまで歴史の中で裏の宗教としてひっそりと生き続けてきた民間
信仰であるシャーマニズム信仰を、古代神道の復活という形で表舞台に登場させようとしたも
のだったのです。


古神道のその後の動き
 篤胤によって呼び覚まされ意義を与えられた霊的要素やシャーマニズム的世界は、その後、
江戸後期〜大正時代に、古神道神秘主義、あるいは神道霊学(*それを古神道オカルティズ
ムとか古神道カルトと呼ぶ人もいる)として発展していくことになります。

その過程で、古典から引き出された「一霊四魂」や「言魂(ことだま)」といった古神道の思想理
論や、「禊(みそぎ)」「帰神(きしん)」「審神者(さにわ)」といった実践理論が生み出されていく
ことになります。そしてこれらの動きが大本教の中に流れ込み、集約されることになっていくの
です。

 この大本教に、日本のスピリチュアリズムの創始者である浅野和三郎がいたことは、すでに
ご存じのことと思います。浅野と大本の係わりについては、他の多くの著書で詳しく紹介されて
いますので、ここでは省略します。

  

(3)浅野和三郎の「和製スピリチュアリズム」について


浅野和三郎と古神道
 スピリチュアリズムと古神道との関係については、浅野を抜きにして語ることはできません。
現在、日本のスピリチュアリストの中には、古神道とスピリチュアリズムの共通性を主張する
人々がいますが、それは浅野の作り出したスピリチュアリズム観の影響を引きずっているから
です。

浅野和三郎は大本教を去ってから、古神道カルトへの傾斜を避け、より客観的な霊と霊界の
存在の実証を目指すようになります。そして欧米の心霊研究・スピリチュアリズムと日本の古
神道とを折衷した、「和製スピリチュアリズム」を確立することになります。

浅野のスピリチュアリズム観は、現在、私達がシルバーバーチやモーゼスの霊訓を基準として
いるスピリチュアリズムとは肝心な点で大きくズレています。現代の私達からは、浅野のスピリ
チュアリズム観のすべてを容認することは到底できません。

浅野流スピリチュアリズムは、どこまでも浅野和三郎という個人によって色づけされたものであ
り、純粋なスピリチュアリズムとは言えません。スピリチュアリズムと神道を折衷すること自体、
スピリチュアリズムを本当に理解しているならば、あり得ないことなのです。

それはスピリチュアリズムの本質を歪めることだからです。浅野流スピリチュアリズムに内在す
る問題点が、今日の日本のスピリチュアリズム界にまで、マイナスの影響を残しています。


浅野流スピリチュアリズムの再生観の問題
 浅野の和製スピリチュアリズムは、古神道とスピリチュアリズムにおける共通点の上に成立
するものです。その古神道とスピリチュアリズムの共通点とは、死後の世界の実在・死後にお
ける生命の実在・霊と地上人の交流の可能性という霊魂観です。

また天御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)を最高位の神とする場合は、神観におい
ても、スピリチュアリズムとの一致点を持つことになります。しかしこうしたスピリチュアリズムと
の共通性は、何も古神道との間にのみ存在するものではなく、世界各地の多くの宗教との間
においても同様に見られることなのです。

 浅野流の和製スピリチュアリズムの思想的ユニークさは、その再生説である「創造的再生
説」にあります。彼は自分の再生観を  「内容的にはマイヤースとほぼ一から十まで同一であ
る」と述べています。

しかしそれを厳密に比較してみると、浅野が声を大にしてマイヤースとの共通性を強調したの
とは異なり、内容的に大きな食い違いが見られます。マイヤースの再生説と、およそ同一のも
のとは言えません。

世間一般的に信じられている「機械的再生説」や「同一人物再生説」の間違いを指摘している
点では、浅野とマイヤースは同じ立場であっても、その具体的内容については食い違っていま
す。

*浅野とマイヤースにおいて再生観の内容に違いがあるとするならば、シルバーバーチと浅野
の見解の相違は、いっそう大きなものとなります。浅野とマイヤース、浅野とシルバーバーチの
「再生観」は、全く別物というほどの本質的違いがあるのです。

 マイヤースとシルバーバーチでは、類魂についてはほぼ同一レベルでの解釈がなされていま
すが、再生観になると、両者間に大きな違いが見られます。きわめて知的ではありますが新米
のマイヤース霊と、超ベテランのシルバーバーチ霊の霊格の違い・貫禄の差は歴然としていま
す。

シルバーバーチによって「類魂」や「再生」についての詳細が明らかにされるに伴い、浅野の再
生観ばかりでなく、マイヤースの再生観の間違いも明確にされるようになってきています。マイ
ヤースの示した類魂観は正しいのですが、彼の再生説には多くの間違いが見られます。浅野
とマイヤースとシルバーバーチの類魂説と再生説の違いについては、今後のニューズレターで
取り上げる予定です。 


日本のスピリチュアリズムの創始者としての大きな功績
 思想的な間違いがあるとしても、私達は、浅野和三郎を日本のスピリチュアリズムにおける
最高の貢献者として敬意を表しています。開拓者としての重責を担い、孤軍奮闘してきた彼の
人生に求道者としての情熱と真剣さを見て、尊敬の思いを深く抱いています。

心霊研究に心血を注ぐ傍ら、スピリチュアリズム啓蒙のための翻訳に全力を傾けてきた彼の
生き方に、スピリチュアリズムに人生を捧げた手本を見ることができます。

 今、平成に生きる私達スピリチュアリストにとって何より有り難いことは、浅野が神秘主義的
な心霊現象に沈潜してしまうことなく、霊的な諸現象を客観的な視点から眺める姿勢を失わな
かったことです。

心霊研究者として一貫した態度をとり続けてきたことです。さらには単なる心霊研究に留まら
ず、霊的知識を信仰の方向に推し進めようとしたことです。 (*ただし、そのために古神道を
持ち出したところは間違っていましたが……)


スピリチュアリズムの本質を正しく理解できなかった浅野和三郎
 地上人類がスピリチュアリズムに至るには、3段階の進歩のプロセスを踏まなければなりま
せん。まず初めは、「心霊現象の研究」の段階です。この段階における心霊研究は、たとえそ
れが科学的・客観的な方法においてなされたとしても、好奇心のレベルに留まるものであり、い
まだスピリチュアリズムの門をくぐったことにはなりません。

次の段階は、「霊的真理の研究」の段階です。興味の対象が、現象から思想に進歩したレベ
ルです。人類はここにおいて、やっとスピリチュアリズムの入り口に立ったことになります。そし
て次が、「霊的真理の実践」の段階です。

人々の関心が真理の実践と霊的成長に移り、霊的真理は信仰と一致することになります。ここ
において初めて、本当のスピリチュアリズムに至ったことになります。

 こうしたスピリチュアリズムに至る段階論から見れば、浅野は意識の上では3段階目を目指
していたものの、現実には2段階目でつまずいたことになります。なぜなら彼は、霊的真理の
研究・理解の段階において、肝心な点からズレていたからです。

霊的真理を学ぶ上での最も重要な点は、スピリチュアリズムが、人類史上初めての霊界あげ
てのビッグプロジェクトであることを理解するということです。スピリチュアリズムの意義と重要
性を悟ることが、個々の霊的事実を理解すること以上に大切なことになるのです。

スピリチュアリズムの歴史的な意味を知り、スピリチュアリズムに対する自分の正しい姿勢・ス
タンスを決めることができるようになって、初めて霊的真理を正しく理解したと言えるのです。そ
れは当然のこととして、高級霊による霊界通信に対する謙虚な姿勢として表れます。

 その「謙虚さ」こそが、スピリチュアリズムを正しく理解したかどうかの一つの目安となるので
す。

 残念ながら浅野は、この重要な霊的真理のポイントを正確に理解することができませんでし
た。そのためスピリチュアリズムの霊的真理を、「古神道」という古い皮袋に詰め込んでしまっ
たのです。

そのことが、やがてスピリチュアリズムをもって天皇主義を賛美するといった方向にまで、彼を
至らせることになってしまいました。浅野は結局、スピリチュアリズムにおける「霊界通信」の本
質を正しく理解していなかったのです。

モーゼスの『霊訓』にまで、たどり着きながら……
 浅野について考えるとき、いつも残念に思うことは、彼がモーゼスの『霊訓』と出会い、これを
翻訳しながら、その最も肝心な点を理解できなかったことです。現在の私達のように高級霊界
通信を「絶対基準」として見ていく立場からは、浅野の思想の間違いは一目瞭然です。

しかし初めから古神道とスピリチュアリズムを対等に置き、これらを折衷させようとする浅野の
立場にあっては、自分の間違いに気がつくことは、ほとんど不可能なことであったようです。

 モーゼスの『霊訓』から私達がまず理解しなければならないことは、単なる霊界の諸事実や
霊的真理だけでなく、それらの知識を地上人にもたらしているスピリチュアリズムそれ自体に
対する重要性を理解することでした。本来なら浅野が真っ先に認識しなければならなかったの
は、その点だったのです。

 もし、スピリチュアリズムが興された霊的背景に対する正しい認識があったなら、その後の彼
の方向は根本から変化したはずです。自分流に作り上げたスピリチュアリズムなどというもの
を、潔く捨て去ることができていたはずです。

モーゼスの『霊訓』が、霊界あげての人類史上最大のビッグプロジェクトであるということを悟る
ことができていたなら、その時点で、日本のスピリチュアリズムのレベルは一挙に高められた
はずです。そしてその時、日本に正しいスピリチュアリズムが定着したと思われます。

モーゼスの『霊訓』(純粋な霊界通信)が、高級霊界によってもたらされた重大なものであるこ
と、地球にはそれに匹敵するほどの高次なものはないという深刻な背景を自覚できていたなら
ば、日本のスピリチュアリズムは、高級霊の「霊訓」を中心としたハイレベルの"信仰"になって
いたと思われます。

 浅野がせっかくモーゼスの『霊訓』にまで至りつつも、その背景にある重大な意味を悟ること
ができなかったことは、実に残念としか言いようがありません。霊訓をスピリチュアリズムにお
ける最高の拠りどころとして確立し、自分の考えと方向性を霊訓に従わせるようにしなければ
ならなかったのです。

古神道とスピリチュアリズムを折衷させようという努力をやめ、これまでの自分の考えのすべて
を白紙撤回し、霊訓を「絶対基準」としてゼロから組み立て直すべきだったのです。そのように
して、「霊訓」を拠りどころとしたスピリチュアリズムの方向性を確立しなければならなかったの
です。

 翻訳者は、ややもすると自分の翻訳した本の内容を理解していないことが多いものですが、
そうしたことが浅野自身にも当てはまります。浅野とコナン・ドイルは、ともに日本とイギリスに
おけるスピリチュアリズム普及の立役者です。

コナン・ドイルも浅野も、モーゼスの『霊訓』とは出会っているが『シルバーバーチ』にはいまだ
出会っていないという点で共通性を持っています。しかし両者のスピリチュアリズムに対する理
解には大きな違いがあります。

コナン・ドイルはスピリチュアリズムの歴史的意義を正確に理解していたのですが、浅野はスピ
リチュアリズムが興された本質を正しく理解していませんでした。浅野はあまりにも、自分の研
究成果にこだわり過ぎたようです。そして、それに過剰に自信を持ち過ぎたようです。 (*霊媒
を通じての地上サイドの研究から、霊界の奥義を知ろうとすることが、そもそも無理なことなの
です)さらに国粋主義・民族主義的愛国心の影響を受けざるを得なかったことも一因と思われ
ます。

当時の社会を覆っていた雰囲気が、何とかして日本の伝統を、欧米のスピリチュアリズムと一
体化したものにしたいとの強い意欲を持たせたのかも知れません。欧米の心霊研究を次々と
翻訳し紹介するところまでは良かったのですが、その強い愛国心が、心霊研究の成果を信仰
化する段階において、日本伝統の宗教「古神道」を持ち出させてしまいました。

 当時の浅野は、あらゆることを一人でしなければならないという同情すべき状況に置かれて
いました。あまりの忙しさの中で、じっくりと「霊訓」の存在している意味を考えるゆとりがなかっ
たのかも知れません。また霊媒を通じて現れる大半の霊が幽界レベルの低級霊であり、スピリ
チュアリズムの目的を語るほどの高級霊の出現がなかったことも、大きなマイナス要因となっ
ていたと考えられます。

 これらが浅野に、純粋なスピリチュアリズム路線を歩ませるチャンスを逸させることになって
しまったのです。浅野は、霊訓と自分の考えや自己の研究成果を同等に置いて考え、「古神
道」と「スピリチュアリズム」を同格に位置づけするといった大きな間違い・主客転倒をしでかす
ことになりました。そして霊訓の中に示された真理の実践・正しいスピリチュアリズムの実践へ
と進んでいく道を、自ら断ってしまったのです。

先駆者浅野のそうした失敗は、現代の私達スピリチュアリストに大きな教訓を残しています。霊
界通信に対しては、それが高級霊からのものであっても、一時は理性を通して検討し、理性が
納得するまで鵜呑みにしない姿勢をもち続けることが大切です。

しかしいったん、それが自分にとって最高のものであるとの確信ができたなら、今度はその「霊
訓」を人生の道しるべ・人生の教師として、自らを従わせていくことが必要となるのです。スピリ
チュアリズムは、地球全体をターゲットにして進められている地球規模の一大プロジェクトで
す。

その中にあっては当然、民族主義は常にスピリチュアリズムに従わなければならないのです。
民族意識を離れた霊的な高い視点から、スピリチュアリズムを見ていかなければならないので
す。 


これからの日本のスピリチュアリズムの歩み  浅野和三郎を乗り越えて
 これからの日本のスピリチュアリズムは、シルバーバーチなどの高級霊による霊界通信を最
高の拠りどころとして歩んでいかなければなりません。スピリチュアリズムが地球上の全人類
の救済を目的として展開されている以上、和製スピリチュアリズムなどというものは本来的に
存在してはならないものなのです。

私達は、日本におけるスピリチュアリズムの開拓者として最大の貢献をなした浅野和三郎への
感謝を忘れてはなりませんが、しかしそれと同時に、開拓者であったがゆえの未熟さから犯し
てしまった間違いを、一刻も早く払拭し、乗り越えていかなければなりません。

本物のスピリチュアリズム確立のために尽力していかなければなりません。私達が「霊界の道
具」であるのと同様に、浅野和三郎も霊界の一つの道具としての道を歩んだのです。

 今日本は、浅野によって始められた初期のスピリチュアリズムの段階を終え、本当のスピリ
チュアリズム普及の時代を迎えようとしています。 私達が、古神道や神ながらの道、四魂説の
和魂・幸魂・荒魂・奇魂といった用語で、スピリチュアリズムの理解を図る必要は全くありませ
せん。

古典の中に、霊感のごく一部が含まれることがあるとしても、所詮古典に過ぎない『記紀』と、ス
ピリチュアリズムにおける「高級霊訓」を同列に扱うことは間違っています。冒頭でも述べたよう
に、浅野によって作られた和製スピリチュアリズムは、真実のスピリチュアリズムとは言えませ
ん。それどころか、スピリチュアリズムの最も本質的な部分をすり替えてしまうほどの大きな問
題を抱えています。 

 今、シルバーバーチのような高級霊からの霊界通信を手にし、霊界に対する詳細な事実まで
明らかにされた時代にあっては、和製スピリチュアリズム(神霊主義)といった時代遅れの思想
は一掃しなければなりません。 新しいブドウ酒は、新しい皮袋に入れなければならないので
す。


より高い霊的世界を求めて
 現代の日本においては、イギリスと並んで『シルバーバーチの霊訓』やモーゼスの『霊訓』、カ
ルデックの『霊の書』などの優れた霊界通信が、完全な形で紹介されるようになっています。そ
のことは、現在の日本の霊的上限ラインが、それらを受けられるレベルにまで達したということ
を意味しています。

シルバーバーチなどの「高級霊訓」の示す内容・霊的啓示を受け取ることができるレベルにま
で至ったということなのです。50年前の日本は、そうしたレベルにはありませんでしたが、ここ
50年間のうちに霊的世界をリードするような、高い霊的レベルに上昇してきたのです。

 日本が他国に先んじて、最高レベルの霊的真理「霊訓」を有するようになった背景には、霊
界からの大きな期待が込められています。すなわち日本人の上に、スピリチュアリズムの世界
展開の先駆けとしての責任が担わされているということです。

日本のスピリチュアリズム界が「高級霊界通信」を指針として、より高い霊的レベルを目指すと
き、我が国は世界の中で、スピリチュアリズムの見本を示すことができるようになります。 21
世紀を通じて、経済分野におけるリーダーから、スピリチュアリズムにおけるリーダーとしての
貢献が、霊界から望まれているということなのです。 



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