◇ニューズレター10号 (抜粋)
2000年7月



目 次

霊的人生の出発は、欲望・本能の抑制から
  スピリチュアリズムは厳格な欲望抑制主義です。 
        ・「霊主肉従」と「肉主霊従」
        ・「霊主肉従」の闘いは、地上ならではのもの
        ・スピリチュアリズムの第一の実践は、
         「霊主肉従」のための内面の闘い
        ・人間の中に存在する獣性
        ・スピリチュアリズムは、厳格な欲望抑制主義
        ・欲望抑制主義は、人間らしさを取り戻す方法
        ・お金・セックス・名誉・権力――この世の四つの欲望
        ・金銭欲・物欲
        ・セックスの快楽に狂奔する現代人
        ・究極の利己性――名誉欲・支配欲
        ・質素な生活――スピリチュアリストとしての実生活@
        ・貞節な生活――スピリチュアリストとしての実生活A
        ・謙虚な道具意識――スピリチュアリストとしての実生活B 
清らかさを求めての自己克己の歩み
  ――“性欲”との闘い 
        ・最も困難な闘い
        ・イエスの示した厳しい“内面基準”
        ・清らかさの決定――性欲との闘い方
        ・困難な男性の性欲コントロール
        ・闘うこと自体に価値がある――諦めずに闘い続けなさい
        ・性欲コントロールは「霊主肉従」がポイント
        ・夫婦間のセックスはどうあるべきか
             ――夫婦間の性のコントロールの必要性 
どちらでもよいことに、いつまでも関心を向けていてはなりません。
宇宙人・ UFO・ 超古代大陸文明について 
        ・宇宙人は、どちらでもよいもの
        ・大切なのは宇宙人か霊界人か?
        ・地球人も宇宙人も同じ“霊界人”
        ・スピリチュアリズムとUFO信仰の違い
        ・UFO神話の弊害
        ・アトランティス大陸の仮説
        ・ムー大陸の仮説
        ・アトランティス人からのチャネリング? 
          自分の過去世はアトランティス人?
        ・スピリチュアリズムに係わる問題とは 


ニューズレター



霊的人生の出発は、欲望・本能の抑制から
スピリチュアリズムは厳格な欲望抑制主義です。 



「霊主肉従」と「肉主霊従」

 地上において魂(霊性)を高めるために真っ先にしなければならないことは、私達の心を「霊
優位にする」ということです。私達の心が霊的な方向性を取っている時、心は霊優位の状態に
置かれます。

逆に心が本能や物欲に支配されている時、あるいはお金儲けやセックスのことばかりに向けら
れている時は、本能優位・肉優位の状態になります。この前者の状態を「霊主肉従」と言い、後
者を「肉主霊従」と言います。

 霊的真理をじっくり読んだり深い祈りをした後、心がすがすがしく洗い清められたように感じら
れる時は、霊主肉従の状態にあります。反対に霊的真理もどこかに消え失せ、剥き出しの感
情と本能に翻弄されている時は、心は肉主霊従になっています。

私達地上に住む人間は、こうした二つの状態の間を絶えず揺れ動いています。すなわち、霊
が支配的な状態と、肉(本能)が支配的な状態の間を行ったり来たりして日々の生活を送って
いるということです。


「霊主肉従」の闘いは、地上ならではのもの


 肉体のない霊界人は、私達地上人と違って「肉主霊従」の状態になることはありません。霊
界人は肉欲から完全に解放され、地上人のような霊と肉といった内面の葛藤を持つことはあり
ません。

地上人から見た時、霊界人はまさに清らかさだけの存在となっています。一方、肉体をまとっ
ている地上人においては、全く異なる方向性を持った霊と肉が一つの心の内に存在します。霊
は利他的方向を指向し、肉体に属する本能は利己的方向に向おうとします。それによって心
の中で激しい闘いが生じることになります。

 私達が霊的成長をなすためには、「霊主肉従」の状態をつくり上げることが最低条件となりま
す。霊が肉体の力に閉じ込められている限り、霊的な成長は不可能なのです。地上で霊的成
長を望むならば、霊主肉従の闘いを避けることはできません。


スピリチュアリズムの第一の実践は、「霊主肉従」のための内
面の闘い


 もし私達がそうした内面の闘いを避けて、霊的真理普及(伝道)という外面的な行動に邁進し
ても、単なる活動家になってしまいます。霊的成長はできません。自分に甘く、他人に厳しいだ
けの人間になってしまいます。

私達はまず自分自身の内面の闘いへて、“真の信仰者”となるように努めなければなりませ
ん。それから外へ出て人々のために働くということです。先に自分自身の内面を厳しく律し、自
らの心をスピリチュアリストとしてふさわしいものにしなければなりません。 スピリチュアリズム
の霊的実践の第一歩は、「霊主肉従」の内面的闘いから始まるのです。



人間の中に存在する獣性


 シルバーバーチは、霊と肉の関係について次のように言っています。 

人間には神性が宿っていると同時に、動物進化の名残としての獣性もあります。人間としての
向上進化というのは、その獣性を抑制し神性をより多く発揮できるようになることです。  
                                       〈シルバーバーチ11・185〉

 ここにおける獣性とは、動物との共通要素である“肉欲的本能”を指しています。動物は常に
本能が自然法則によってコントロールされているため、本能的行動が一定の限度を越えること
はありません。

生きるのに必要なだけ食べ、それ以上は食べません。子孫を残すためだけにセックスし、それ
以外のセックスはしません。それに対し人間には自由意志が与えられているため、無制限に
肉体的本能を追求することができるようになっています。必要以上に食べ、限度を越えてセッ
クスをすることができるのです。

 本能は自己の生存を可能にするために神から与えられたものであり、自分自身のためにの
み働くようになっています。本能の本質はエゴ性・利己性ですが、自己の存続を図るという目的
のもとにあっては、それは正当なものとなります。一定のコントロールのもとに置かれる限り、
本能はその役割を果たして人間に貢献することになります。

 しかし、そうした本能的欲望を限度を越えて求めるようになると、本来の在り方から逸脱する
ことになります。その人間全体が醜いエゴ的存在になってしまいます。霊性は隅に追いやら
れ、一切の活動ができなくなり、単なる本能だけの人間になってしまうのです。結局、動物にも
劣るような醜い存在に堕ちてしまうのです。

 シルバーバーチの言う獣性には、食欲・性欲といった本能ばかりでなく、そこから派生する名
誉欲・支配欲といった利己的欲望も含まれています。



スピリチュアリズムは、厳格な欲望抑制主義


 先に述べた霊主肉従のための努力とは、こうした本能的欲望・利己的物質欲を抑制し、コン
トロールすることに他なりません。欲望抑制のための努力、ストイックな努力を意味します。ス
ピリチュアリズムにおける“霊的人生”とは、この自己の内面における闘いから始まります。

その意味で、スピリチュアリズムは、厳格な欲望抑制主義と言えるのです。地上の人間には、
地上で魂を成長させるために、地上ならではの努力が必要とされます。

肉体を持たない霊界人や天使とは違った努力が要求されます。また霊と肉の二重構造を持た
ない動物とも違った努力が要求されます。それが「霊主肉従」のための自己克己の闘いなので
す。

 私達の魂は、肉体的本能をコントロールする努力を通じて、初めて成長するようになっていま
す。この自己コントロールの努力は、すべて各自の自由意志のもとに実行されなければなりま
せん。

自己克己の闘いをなして自らの霊性を高めるのも、その闘いを避けて霊的成長のチャンスを
失うのも、すべて本人に任されています。成長も停滞もみな、自分自身が決めるということなの
です。

 霊主肉従の闘いには、確かに大変な苦労がともないます。しかし、その苦しい霊主肉従の闘
いを自らに強いることによってのみ、私達は、地上人生を有効に活かすことができるように運
命づけられているのです。


欲望抑制主義は、人間らしさを取り戻す方法


 現代の大半の人々は、“欲望の抑制”を時代遅れの考えであるかのように錯覚しています。
人間から自由を奪う厭うべき考えのように思っています。ストレートに欲望を求めることは人間
に与えられた特権であり、人間らしく生きることであるかのように思っています。

しかしその結果、多くの地上人が獣にも劣るような醜い人間に堕ちています。そして死後の、
初めて自分の地上人生のあまりの愚かさに気づくようになるのです。かけがえのない地上人生
を無駄に過ごしてきたことを実感し、激しい後悔の念に駆られるようになるのです。

 現代の地上世界は“物質主義”に覆い尽くされ、霊的成長にとって最も困難な状況が展開し
ています。その最大の原因は、地上人が「霊的事実」に無知であるところにあります。

事実、死後にも永遠の生活があり、地上はそのための準備の場であると知ることは、霊的人
生を歩む上での最低の知識を持つということです。ところが、その最も基本となる知識を受け
入れている人は、あまりにも少ないのです。


お金・セックス・名誉・権力  この世の四つの欲望



 私達につきまとう肉体的・本能的欲望とは、具体的に言えば、「金銭欲・物欲」「性欲」「名誉
欲」「権勢欲」の四つに要約されます。現代人の大半の人生は、まさにこれらの欲望を追及す
るものとなっています。肉主霊従の結果、こうした四つの欲望を満足させることが地上人生の
目的となっています。


金銭欲・物欲



 大部分の現代人にとって、お金は物質的な欲望を満たすための最も大切な手段であり、頼り
がいのある存在です。お金があれば、おいしいものを食べ、すばらしい邸宅に住み、高級車に
乗り、流行の衣服を身に付けることができます。

思う存分、旅行や娯楽を楽しむことができます。多くの人達は、「お金こそが自分に幸せをもた
らし、幸福を決定するものである」と考えています。現代社会においては、すべての価値はお金
によって決められており、実質的な“価値観の基準’’となっています。

 また現代の極端な物質中心主義の社会にあって、人々は絶えず本能的物欲を刺激され続
けています。マスメディアによって流される情報によって煽られ、人々はいつの間にか、より多く
の物を買い、より多くの物を消費することが当然のように思い込んでいます。

高価な物を買い求めることが、すばらしいことであるかのように思わされてしまっています。テ
レビや雑誌で宣伝される新商品を手に入れなければ、社会から取り残され、幸せを失うかのよ
うな錯覚に陥っています。

そして政府までもが、国民に質素な生活を勧めるのではなく、もっと消費を増やして贅沢をする
ような政策を推し進めています。国民がさらに物を買い贅沢をしない限り、現代の経済は成長
していかないようになっています。

 個人から政府に至るまで、明らかに社会全体が、国全体が狂っているとしか言いようがあり
ません。最少限度の物で満足し、それを丁寧に使い古すまで用いるという当たり前のことが、
現在では美徳ではなく厭うべきライフスタイルになってしまっています。物欲を助長するのが当
然で、正しいことのようになってしまっているのです。



セックスの快楽に狂奔する現代人



 さてお金が手に入るようになり、物質的な生活が保証されるようになると、人々が次に向うよ
うになるのがセックスの快楽です。食べることに精一杯の苦境から脱すると、あるいは宗教的
な規制がなくなると、多くの人々は例外なく、セックスの快楽を求めるようになります。

歴史上、富と権力を手にしながらも、セックスの快楽に溺れることがなかった人、潔癖な人生を
送った人は稀と言ってもよいでしょう。そのような人は、まさに聖人というべき高潔な人格を持っ
た人と言えます。

経済的に豊かになった現在の日本においては、国の隅々に至るまで、また若者からお年寄り
に至るまで、退廃的なセックスが浸透しています。これまで一部の特権階級・金持にのみ見ら
れたセックスの乱れは、現在の日本においては、全国民的な傾向になっています。

 厚生省による都立高校生を対象にした最近の調査では、高校三年生の40パーセント近くに
セックスの体験があることが報告されています。また平成10年度における10代の人工妊娠
中絶数は、女性人口千人に対して9.1人で、過去最高であることが分かりました。このように
セックスの乱れは、異常な広がりを見せています。

 自由奔放なセックスの快楽追求はど、人間を獣以下に貶めるものはありません。霊的に見
た時、現代世界は、まさに獣にも劣る人間を次々と増産しています。性欲に対する歯止めがな
くなり、本能の赴くままセックスに走ることによって人間は「霊性」を失い、ますます欲望・本能
の虜になるようになります。

性欲コントロールの壁をすべて取り去ってしまうところには、本能の暴走しか存在しないので
す。そしてそういう人間によって、死後の幽界には、同様なセックス地獄がつくられることになり
ます。

 性の退廃は日本だけではなく、現代の世界全体・地球全体の共通の問題であることは言うま
でもありません。日本がそうであったように、ある国が経済的に豊かになれば、それにともな
い、セックスの快楽追求がエスカレートしていきます。

経済的に恵まれた後も、このパターンを踏まなかった国はありません。経済が豊かになりつつ
も、健全な性道徳が保たれた国はありません。こうした退廃的セックス文化は、現代の先進諸
国を覆う共通の傾向となっています。

 現代における地球レベルの性の荒廃は、欧米のキリスト教の衰退によって歯止めがなくなっ
たことと、経済発展にともなう物質主義の浸透によって引き起こされました。20世紀における
人間性の回復の動きが、性の自由化をもたらすことになったと考える人もいますが、現実は、
人間が本能に翻弄されるようになったことが一番の原因なのです。

日本はそうした欧米の性の解放と退廃の後を追いかけて今日に至っています。20世紀の後
半において、性の堕落傾向は地球規模で急激な広がりを見せるようになりました。

性がオープンであることが、さも人類の進化、自由の進展であるかのような愚かしい考えが世
界中に蔓延するようになっています。



究極の利己性  名誉欲・支配欲


 十分なお金を手にし、物質的に恵まれると、人間が最終的に望むものは名誉欲であり支配
欲(権勢欲)です。

人から偉く思われたい、人より優れた存在でありたい、そして周りの人々を自分の言いなりに
させてみたいと思うようになります。初めは謙虚であった人も、人の上に立つようになると、い
つの間にかこうした欲望が頭を持ち上げてくるようになります。

他人を思うように動かしコントロールすることが快感になってくるのです。政治家、宗教家、企
業家、作家、評論家、芸能人、歌手、学者、社会活動家、官僚ばかりでなく、どのような小さな
組織の長においても、“名誉欲・支配欲”の根深さを見ることができます。

そして、ここから多くの争いが生じることになるのです。この世の成功者と言われる人々には、
名誉欲・支配欲が強く巣くっています。またボランティア活動に熱心に取り組んでいる多くの
人々の心の奥にも、名誉心といった利己性が潜んでいることが往々にしてあるのです。

 スピリチュアリズムとしての実生活とは、「霊主肉従」の努力、すなわち本能的欲望を抑制す
る日々の積み重ねに他なりません。それは具体的には、「金銭欲・物欲のコントロール」「性欲
コントロール」「名誉欲・支配欲のコントロール」ということになります。
 次に、それらの一つ一つについて見ていくことにしましょう。



質素な生活  スピリチュアリストとしての実生活@


 衣食住に代表される物質には、何一つ霊的な価値はありません。これらは地上で生活する
ためにのみ存在するもので、必要最低限あれば事足りるのです。衣食住については、「生活で
きればそれでよし」といったところで線を引かなければなりません。

霊的な成長のために、豪華な邸宅に住む必要はないし、高級車を持つ必要もありません。ファ
ッショナブルな高価な衣服も装飾品も必要ありません。多くの現代人は不健全で贅沢なグルメ
を求め、肥満し、わざわざ病気をつくり出すような愚かなことをしています。こうした“衣食住”に
意識と生活が翻弄されているうちは、霊的に成長することはできません。

 もし皆さんの中に、スピリチュアリズムに導かれながらも、こうした物欲に強くとらわれている
方がいらっしゃるならば、その方は霊界に行ってから後悔することになるでしょう。お金を儲け
ることが悪いとか、金持になってはいけないと言っているのではありません。

お金があっても質素な生活をしなさいというこです。お金に翻弄されることがないようにしなさ
い、お金を自分の意志でコントロールしなさい、ということなのです。それが、その人の霊性の
高さを示す明確な指標なのです。

余分なお金が手に入るのは、それを人助けのために使いなさい、持たない者に分け与えなさ
いということです。自分や自分の家族の快楽・満足のためだけに、お金が与えられているわけ
ではありません。

必要以上のお金が入るのは、霊界から自分の内容が試されているのかも知れないということ
を忘れてはなりません。お金を自分のために使うのか、多くの人々の利益のために使うのか
が試されているのです。



貞節な生活  スピリチュアリストとしての実生活A


 スピリチュアリストとして、セックスについてはどのように考えたらよいのでしょうか。結論を言
えば、スピリチュアリストは性欲をコントロールし、清らかな生活を心がけなければならないとい
うことです。

恋愛関係にあるというだけでセックスは許されるものではなく、婚前セックスもすべきではあり
ません。婚前交渉を認めることは、性の堕落を容認することなのです。当然のこととして、夫婦
以外のセックスは許されません。女性ばかりでなく、男性にも貞操が要求されるということで
す。

 このようなことを聞けば、大半の人々は時代遅れの考えのように思われるかも知れません
が、霊的な視点に立てば、それはごく当たり前のことなのです。

霊界人にとっては常識的な考えに過ぎません。それが現代人には特別なことのように思われ
るのは、それほど現代人が“霊的な常識”から掛け離れているというこなのです。いつの間に
か大部分の日本人が、低俗な性の乱れを異常と感じられなくなってしまっています。

異常を異常と考えることができなくなっているのです。それほどまでに、大半の人々の「霊性」
は低下しているということです。異常と正常の区別がつかないほど、日本の社会全体が腐り果
ててしまっているということなのです……。


謙虚な道具意識  スピリチュアリストとしての実生活B


 もう一つの欲望である名誉欲と支配欲についてはどうでしょうか。これらも霊的な未熟さから
生じるものですが、霊界の事情が分かって見れば、そうした低俗な欲望にとり憑かれている
人々は気の毒としか言いようがありません。

こうしたものを求めれば求めるほど、その間違いは、他人からの裏切りや孤独・寂しさという形
で自分の身に返ってきます。本当の愛の在り方からずれたことは、“孤独”という痛みによって
埋め合わせがなされ、それによって純粋な利他愛に目覚めることができるようになります。

こうした孤独の痛みを通じて“名誉欲・支配欲”の間違いに気づき、純粋に見返りを求めること
なく与えることの大切さ、無私の奉仕の尊さに目覚めた人は幸いです。

 他人より上に立とう、偉くなろうとするのではなく、他人の役に立とうとする以外に、真に人間
の生きる道はありません。この世の成功者になろうとする必要性は全くありません。有名人に
なろうとする必要性もありません。

霊界の道具として無私になって奉仕する、自分を忘れひたすら他人に尽くすことだけが、私達
のなすべき道なのです。霊界の道具としての謙虚さこそが、本当の幸せである利他愛の喜び
をもたらしてくれるようになるのです。
 

    清らかさを求めての自己克己の歩み
             “性欲”との闘い 


最も困難な闘い

 私達の霊性は、利他愛の行為を通じて高められるようになっています。“愛”は人間の霊性に
とって何より重要なものですが、それにはさまざまなレベルがあります。最も次元の高い愛は
完全な利他愛で、無私の行為・自己犠牲の行為となって示されます。

自分を忘れ、ひたすらより全体の霊的向上のために自分のすべてを捧げる行為となって表れ
ます。利他的な愛は純粋な霊的世界に由来しています。

 それに対して、肉体の本能から出たものが利己的な愛です。自分にとって大切なものだけを
求める愛です。自分の本能的満足や自分の家族の利益を優先するのは利己性の表れです。

そうした利己的な愛の中でも、最も低い次元にあるのが“性愛”なのです。性愛は人間の肉体
の一番深い部分を支配して、地上人を常に利己的な方向へ引きずっていこうとします。

 さて、私達が肉的本能を抑制し「霊主肉従」に至るためには、この最大のエゴ性である性欲と
闘わなければなりません。霊主肉従の努力の中で最高に困難なものが、この性欲との闘いで
す。地上人にとって一番コントロールし難いものが、性欲の問題なのです。

神は地上の人間に、霊的成長のための努力として「性欲のコントロール」という課題を与えられ
ました。神は人類に性の自由という特権と同時に、それを霊的成長のためのチャンスとして活
用する道を与えられたのです。


イエスの示した厳しい“内面基準”


 聖書の中には  「だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたので
ある。もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それを抜き出して捨てなさい。五体の一部を失
っても、全身が地獄に投げ入れられない方が、あなたにとって益である。」(マタイ5章28、29
節)というイエスの言葉があります。

この聖句が、肉=悪というキリスト教の間違った“罪観”を強力に推し進めてしまったことは事
実です。これを見るかぎり、性欲は最悪の存在のように受け取れます。この聖句を絶対的な基
準とするならば、地球上に住む男性はすべて地獄に行くことになります。

この言葉を守ることのできる男性は、地上には存在しないはずです。イエスはそうした実情を
知った上で、こうした最高に厳しい“内面基準”を示したのです。

 この厳しい基準をクリヤーすることができるのは、肉体のない霊界の人々に限られます。し
かし唯一イエスだけは例外として、地上人でありながら、この清らかさのレベルを維持できたの
です。イエスだけは、“情欲”という獣性から無縁であったのです。

キリスト教ではそのイエスの特殊性を、原罪のない神の一人子として説明しますが、ニューズ
レター8号(新年号)で述べたように、現実には原罪はない以上、この説明は間違っています。

イエスといえども、肉体を持っていた以上、性欲がなかったわけではありません。もし性欲がな
いとしたら、肉体的な片輪ということになります。

 霊訓ではそれに対して、イエスの肉体は一般人とは異なり浄化され清らかであったと、隠れ
た秘密に言及しています。この言葉の真意は、イエスにおいては「霊主肉従」のバランスが、極
めて大きく霊に傾いていたため、霊の支配状態が強かったということを意味しています。

イエスにあっては、日常的に「霊優位」の状態が維持されていたということです。そのため性欲
自体が浄化され、この世の男性のような情欲にはならなかったのです。

肉体の特別な浄化のため、また強力な霊的エネルギーを絶えず受け入れていたため、性欲は
存在しても、情欲は存在しなかったということなのです。ゆえにイエスは、男性であるにもかか
わらず、情欲の思いで一度も女性を見たことがなかったのです。

 私達も深い祈りの後には、霊的エネルギーに満たされ、情欲の思いから完全に解放される
清らかな瞬間の時を持つことがあります。イエスには、そうした高められた霊的な状態が継続
してあったのです。そうであればこそ、イエスは先程述べたような、“性欲”に対する厳しい分別
レベルを人類に示すことができたのです。


清らかさの決定  性欲との闘い方


 その人の霊的な清らかさは、性欲に対する姿勢においてはっきりと示されます。セックスにル
ーズであったり、セックスばかりに意識を向けている人間が、高い霊的心境に至ることは決し
てありません。

歴史上の人物で、誰が本当に優れた「霊性」を持っていたのかは、彼らの性欲に対する姿勢
によって判断することができます。

 トルストイの作家活動の後半におけるキリスト教への傾倒と性欲との闘いは、よく知られてい
ます。彼は晩年に『クロイチェルソナタ』や『性欲論』などを著し、禁欲生活の重要性を述べてい
ます。

また日本の親鸞も、性欲について深く掘り下げた人物として知られています。性欲との闘いに
対する親鸞の率直な態度は、彼の清らかさを求める姿勢を示しています。禁を破って山里へ
降りて女性を求めたり、あるいは陰でコソコソと性欲処理をする僧侶の現状の中で、妻帯に踏
み切ったことは、清らかさを限界まで追求した彼の心の純粋さを示しています。

パウロもこの親鸞と同じようなテーマについて述べています  「私のように、一人でおれば、そ
れが一番よい。しかしもし自制することができないなら、結婚するがよい。情の燃えるよりは、
結婚する方がよいからである。」(コリント前7章8、9節)またインドのガンジーは「今日一日、
私はよい夫であった」と述べています。

これは、今日はセックスの欲望に打ち勝って妻とのセックスをしなかったということを意味して
いるのですが、ここにはガンジーが、いかに清らかな世界を求めていた人物であるかが示され
ています。


困難な男性の性欲コントロール


 イエスの述べた厳しい内面基準は、スピリチュアリズムの観点からは正当なものであり、私
達が当然目指すべき目標となります。しかしその目標は、独身の若い男性にとっては想像を絶
するような厳しいものであり、ほとんど実行不可能と言ってもよいでしょう。

それを実行しようとすれば、どれほどの苦しみと絶望が待ち受けているのかが、容易に理解さ
れます。若い男性にとっての霊と肉との闘いは、まさに性欲との闘いにあると言っても過言で
はありません。

しかしいかほど困難であっても、高い理想を目標として努力しなければなりません。ガンジー
が、「今日一日、私はよい夫であった」と言ったような率直な姿勢を手本として、一日でも、少し
でも多く、清らかな時間をつくり上げるための闘いをすべきなのです。

 現在の社会には、あまりにも情欲を誘発する刺激が満ち満ちています。その中で、見るもの
聞くものを聖別することは大変です。2日、3日と真理を読み祈りをして高めた心も、一歩街に
出た途端、アッという間に崩されてしまうかも知れません。

また時には性的な妄想が次々と湧いてきて不安定になり、それを制することができなくなるか
も知れません。

そうした敗北の苦い経験を繰り返し「清らかさを保つのは何と難しいことか、自分は何と醜い人
間なのか」と絶望の底に叩き落とされるような、惨めな思いを味わうこともあるでしょう。初めか
ら負けることが分かっている闘いなどもう止めてしまおうと、諦めようとするかも知れません。

 そのような時、情欲とは無縁な女性があまりにも清らかに映ることでしょう。女性の清らかさ
が羨ましく感じられることでしょう。また一刻も早く霊界に行って、醜い情欲の思いから解放され
たいと考えるかも知れません。

霊界にしか、もはや望みはないように思われるかも知れません。あるいは性欲は肉体の生理
現象で正常なものだから、排泄するのは当然だと居直ってしまうかも知れません。しかしこれこ
そが、まさに歴史上の修道者の誰もが苦しみ抜いてきたことなのです。

そして現在でも、清らかさを求めようとする全ての人間が、例外なく直面しなければならない内
面の闘い・醜さとの闘いなのです。

 性欲との闘いは、私達が清らかな思いを心に宿し、清らかさを求めていくための努力に他な
りません。年をとってからも、清らかな心境を求める情熱と姿勢を失ってはなりません。「もっと
もっと清らかになりたい」という思いがなくなれば、もはや「霊的成長」は望めないのです。



闘うこと自体に価値がある  諦めずに闘い続けなさい


 忘れてはならないのは、清らかになろうとして闘いをすること自体が、その結果にかかわら
ず、すでに高いところに身を置いているということです。結婚して好きな時にセックスができる人
達は、もはや清らかさを求める厳しい闘いからは縁遠くなります。

好きなように性欲を満たせる状況にある中では、清らかさへの感度も意欲も薄れてしまいま
す。若い時には敗北の連続であったとして、清らかさを求めての闘いに臨めるというそのこと
が、この世の男性とは異なる、格段に高い世界にいることを示しているのです。

たとえ闘いに負けることがあっても、清らかさを求めて闘うその姿勢は、魂を高みへ押し上げ
ることになります。少しでも清くありたいと抵抗することこそが大切なのです。

 若い時に性欲と正面切って取り組んだ人とそうでない人では、内面の清らかさと深さにおい
て、大きな差が生じます。年をとってから清らかさの感性を深めることは、とても難しいのです。

若くて、多感・敏感・繊細な心を持っていればこそ、清らかさの感性を育み深めることができる
のです。常に性欲に負け続けてばかりであったとしても、諦めずに闘いに挑む姿勢が、心を高
い世界に導いていくのです。

性欲との闘いは、積み上げた石をまた崩すような虚しい闘いであるかも知れません。それでも
諦めずに闘い続けていって欲しいと思います。それが霊的に見た時、計り知れない大きな永遠
の宝をもたらすことになるからです。

若い時に性欲のとの闘いの経験を持たなかった者は、将来、霊的に深くなることはできませ
ん。若い時に性欲の放縦に染まり切った者は、霊的な不具者となってしまうのです。

 性欲との闘いは本当に苦しいものです。しかし、それは霊界に行った時には完全になくなりま
す。まさしく“死”は清らかさを求め続けてきた人にとっては、苦しみからの解放の時となりま
す。地上の醜さから解放される喜びの時となるのです。

清らかさを求めて闘ってきた者と、性欲を肉体生理の当然の現象として放縦に見を任せてきた
者とでは、地上にいる間に、天と地ほどの大きな「霊性の差」をつくり上げることになるのです。

 性欲との闘いをしている者と、性欲の放縦に見を任せている者とでは、全身から放射される
清涼感が全く異なります。その清らかさの違いは、霊的感性の敏感な人には簡単に見分けら
れます。

 また霊能者として霊界のスピリットとコンタクトする立場にある者にとって、性欲との闘いは最
も強く求められるものです。性欲に翻弄されている霊能者ほど、霊界の低級霊にとって付け入
りやすい存在はありません。

性欲との熾烈な闘いをしていない霊能者、清らかさのない霊能者は、すべて低級霊の侵入を
受けていると言っても間違いありません。


性欲コントロールは「霊主肉従」がポイント


 性欲コントロールの最も効果的な方法は、できるだけ強力に「霊主肉従」の状態をつくり出す
ということです。

霊的真理を読み、瞑想や祈りをすることで霊的エネルギーが蓄えられるようになると、情欲の
妄想はサッと消え去ります。こうした闘いによって情欲の嵐が静まり、清らかな世界に入った時
は、心の底から勝利感が湧いてくるはずです。

 バーバネル(シルバーバーチの霊媒)と友達であり、シルバーバーチの交霊会にも出席して
何度か直接指導を受けていた、テスターというイギリス人ヒーラーがいました。彼は自分の著
書の中で、キリスト教の“禁欲主義”を非難しています。

マスターベーション(自慰行為)を禁じているから若者は欲求不満になり、いろいろな問題を起
こすことになると言っています。そしてマスターベーションを認めるべきだという意見を述べてい
ます。しかし「霊的真理」に照らしてみれば、その考えはやはり間違っています。

彼の率直な人柄がそうした発言をさせたと思いますが、たとえ実現不可能なことと分かってい
ても、目標は完璧なもの、理想的なものでなければなりません。闘いに負けた結果マスターベ
ーションに走ってしまうことがあっても、それを初めから善いものとして認めることはできません
……。


夫婦間のセックスはどうあるべきか  夫婦間の性のコントロ
ールの必要性


 パウロは、結婚した男女に対して次のように言っています  「合意の上で祈りに専念するた
めに、しばらく相別れ、それからまた一緒になることは、さしつかえない。」(コリント前7章5節)
パウロは、結婚してからも二人が清らかな意識を持ち続けるけることの必要性を言っていま
す。

 たとえ夫婦であったとしても、嫌がる相手にセックスを強要することは許されません。それは
動物にも劣る本能剥き出しの最も醜い行為と言わざるを得ません。こうした家庭内暴力に対し
て、最近になってメスが入れられるようになったことは社会として大きな進歩と言えます。

では二人が同意する限り、自由にセックスしても良いのでしょうか。こうした質問は、現代人に
とっては全く馬鹿げたことのように思われるかも知れません。

「そんなこと当たり前じゃないか」「夫婦がお互いに同意している以上、何の問題があろうか」 
 これが大半の人々の答えです。しかし先程のパウロの言葉は、こうした現代人の常識に対し
て、異議を唱えるものなのです。

 夫婦二人がセックスに同意したとしても、それはどこまでも肉体レベル・本能レベルでのこと
に過ぎません。二人が何より霊的世界とそこでの結び付き(霊的結び付き)を優先するのでな
い限り、たとえ気持ちが一致したことであっても、霊的に“善”とはならないということです。

霊的なものをそれぞれが優先するために、夫婦間のセックスを一時中断するのは良いことで
あるとパウロは言っているのです。これはスピリチュアリズムにおけるセックスの在り方を説い
ています。

理想のセックスとは、お互いが霊的成長を最重視し、霊的な結び付きをセックスよりも優先す
るという前提がある時に、初めて成立するものなのです。単なる肉欲の快楽と喜びを、霊的意
識よりも優先するところに、霊的なセックスはあり得ません。

お互いが、必要な時には性欲をコントロールすることができる、ということろにおいてのみ、理
想的なセックスが成立するということです。

 率直に言えば、セックスはなくてはならないというものではありません。セックスレスは夫婦愛
の危機のようによく言われますが、本当に霊的に深い世界で結び付いている夫婦にとって、セ
ックスは二の次なのです。

セックスができなければ愛し合えないというものではなく、むしろセックスをコントロールする努
力の過程で、二人の間に本当の深い愛が育まれることの方が多いのです。セックスの快楽に
溺れた二人が、霊的に深く結び付くことはありません。

かならず“飽き”がきてしまうのです。すべてが肉的レベル・本能的レベルであるからです。霊的
レベルにまで至らない限り、愛は必ず飽きがくるようになり、苦痛へと変わっていきます。

年老いた夫婦がセックスから遠ざかるのは、自然の成り行きです。年老いてもなお性欲が旺
盛なことを賛美するような風潮もありますが、愚かなことです。もちろん年老いたらセックスをす
るなということではありません。

霊的関係が深まっているか、セックスなしでも深い愛情関係をつくることができるのかというこ
とです。

 年若い夫婦であっても、性欲をコントロールすることの大切さを知っておくべきです。必要な
時にはセックスを遠ざけることができてこそ、霊的関係を育んでいくことができるのです。そして
それが結局、二人に本当の喜びをもたらすことになるのです。

肉欲の喜びしか知らない者は“霊的不具者”です。霊的な喜びを知らない人はかわいそうな人
間です。肉欲コントロールの必要性を知り、それを実行できる二人においてのみ、地上のセッ
クスは存在価値を持つようになります。

初めて獣とは違った存在になることができるのです。二人が性欲のコントロールをするもとでの
み、セックスの喜びは追求されるべきものなのです。お互いが率先してセックスをコントロール
するというのも、この世の人々にはない、すばらしい夫婦愛の在り方であり、霊的努力の道で
あることを知っておくべきでしょう。


   どちらでもよいことに、いつまでも関心を 向けていてはなりません。
   宇 宙 人 ・ U F O ・ 超 古 代 大 陸 文 明について



宇宙人は、どちらでもよいもの
 宇宙人とUFOは“超常現象”に似ているところがあるため、しばしば霊的な世界に関心を持
つ人々の興味を引いてきました。しかし宇宙人もUFOも、その存在自体が疑わしい上に、私達
の魂の成長とは直接関係しない、どちらでもよいものです。必要以上に関心を向けるようなも
のではありません。それらへの過剰な好奇心は、「魂の成長」という最も肝心な世界から焦点
をずらしてしまうことになります。

大切なのは宇宙人か霊界人か?
 私達がまず意識を向けるべき対象は、宇宙人ではなく「霊界の人々」でなければなりません。
いつか必ず死を迎える地上人にとって、霊界の存在は最大の関心事であるはずです。それに
比べ他の天体は、私達の死後とは直接的に関係するものではありません。死後、誰もが必ず
行くことになるのは、他の天体ではなく霊界なのです。

 さて現在の地球にとって最大の出来事とは、霊界あげての人類救済活動が、今現実に進行
しているということです。その大プロジェクトは、イエスを頂点とする高級霊団の組織的活動に
よって進められています。そしてそれが功を奏し、地球は徐々に変革されてきたのです。

他の天体から来た宇宙人によって、人類救済活動が進められているわけではありません。宇
宙連合があって、そのもとで地球の浄化が計画・推進されているわけではありません。この点
をしっかりと押さえておかなければなりません。地上人類の運命は、霊界からの働きかけによ
って決せられてきたのです。

 私達の知らない遥かかなたの天体に宇宙人が存在しているのは事実ですが、現時点におい
て、私達地上人と直接的な係わりを持ってはいません。宇宙人の存在が、地上人類に特別な
影響をもたらすとか、重要な意味を持っているわけではありません。

実際には、どちらでもよい存在なのです。死後における霊界での生活、そしてそのための地上
人生こそが、私達にとっての全てなのです。宇宙人とか他の天体といったどちらでもよいこと、
何の意味もない単なる好奇心レベルのことに、いつまでも関心を持っていてはなりません。


地球人も宇宙人も同じ“霊界人”
 広大な宇宙の中には、地球人以外の生命体としての宇宙人は確かに存在しています。シル
バーバーチも、彼らと霊的に直接会って語った体験を述べています。またマイヤースも、太陽
系惑星の半物質次元世界での宇宙人の存在について述べています。

しかしそれは、UFOがらみで登場する宇宙人や、ニューエイジのチャネリングなどで出てくる宇
宙人と同じものを指しているわけではありません。

 ここで少し視野を広げて考えてみましょう。宇宙人の住む天体は、地球と同じくどこまでも物
質次元の世界です。当然そこに住む人々も、私達地上人と同じような肉体(物質的身体)を持
っています。私達と同じように肉体の死もあります。

そして死後は、私達と同じように霊界に行くことになります。物質世界→死→霊界というプロセ
スは、全く同じなのです。重要なことは、私達地球人にとって霊界が本来の世界であるように、
彼ら宇宙人にとっても霊界が本来の世界であるという点です。

すなわち、霊界は、地球人と宇宙人にとって共通の一つの世界であるということです。つまり地
球人も宇宙人も、霊界という同じ世界の住人なのです。ともに霊界を母国とする「霊的存在」と
いう点こそが、地球人・宇宙人における最も本質的な共通点なのです。

そうした事実があるために、地球人も宇宙人も同じ「神の子供」となっているのです。神を拝す
るのは地球人だけではありません。すべての宇宙人も私達と同様に、「霊的親」である神を拝
しています。霊界こそが、地球人・宇宙人にとっての共通の母国であることを忘れてはなりませ
ん。

 こうした観点に立って考えた時、ある宇宙人からの通信が共通の世界(霊界)を前提としてい
ない場合には、明らかにおかしいと思わなければなりません。物質次元の天体・宇宙だけに限
定した話をしていたり、宇宙人であることをことさら強調しているような場合には、疑ってかかる
べきです。その通信は100パーセント、低級霊のからかいだと思って間違いありません。

霊的世界ではなく物質世界に視点を合わせていること自体が、私達地球人の「霊的成長」を優
先していないことの証なのです。まさに“低級霊”の仕業であることを示しています。


スピリチュアリズムとUFO信仰の違い
 地球以外の天体にも確かに宇宙人は存在します。また未確認飛行物体としてのUFOも存在
します。しかしUFOが、宇宙人が地球にやって来るための乗り物であるという事実は存在しま
せん。地球上では毎日何百人という人々によってUFOが目撃されていますが、それは異星人
の乗り物ではありません。

UFO信奉者が一方的に宇宙人の乗り物と思い込んでいるに過ぎません。そうした人達にとっ
ての最大の敵は科学者と言えます。空想を土台としたUFO信奉者の信念にとっての最大の脅
威は、科学的な反証です。

 科学者が敵となりやすいという点においては、スピリチュアリズムとUFOは共通しています。
そのため多くの人々から、スピリチュアリズムはUFOと同様のジャンルに属するものとして見ら
れてきました。しかし、スピリチュアリズムとUFOは全く別物です。

死後の世界や霊の存在とUFOの存在は、本来全く次元の異なるものです。死後の生命や霊
界はどこまでも事実の世界であり、UFOは虚構の世界なのです。


UFO神話の弊害
 スピリチュアリズムにとってUFO神話を見過ごすことができないのは、それが「霊界通信」の
中に入り込んで、霊界通信を低め混乱させているという事実があるからです。霊界通信の背景
には人類の救済を目的とした霊界あげての大計画があります。

地球人類は霊界からの働きかけによって新たな進化の段階へと進もうとしていますが、その中
心的役割を果たすのが高級霊からの「霊界通信」です。そうした本来もっとも崇高であるはず
の霊界通信の中に、ただの空想に過ぎないUFO神話が混入してしまっているのです。

 こうした困った傾向は、米国のニューエイジの中で発生しました。スペース・プラザーと称する
宇宙人達からのチャネリングが米国内で流行しました。プレアデス星をはじめ他の天体の住人
を名乗るソースからの通信が評判となりました。

こうして純粋な霊界からの通信であるはずのチャネリングに不純要素が混入することになり、
チャネリング(霊界通信)自体が極めて程度の悪いものに堕ちてしまいました。そして霊界通信
を信じる多くの人々に混乱を与えることになったのです。

 言うまでもなく、スピリチュアリズムとUFO神話は全く異なるもの、相いれないものです。その
ことをスピリチュアリズムに係わる人々はよく自覚し、UFO神話に惑わされないようにすべきな
のですが、残念なことに、現実には多くのスピリチュアリズム関係者がこれに巻き込まれてい
ます。

UFO信仰が“チャネリング”というスピリチュアリズムと共通の通信手段を利用し成り立ってい
るために、宇宙人からの通信が本物であるかのように思わされてしまうのです。

「霊界通信」という厳粛な事実の中に、UFOや宇宙人にまつわる嘘が侵入することによって、
正当な霊界通信(チャネリング)が本来の純粋さを失いかけています。

こうしたUFO神話とチャネリングの混同は、本物のチャネリングにとっての大きな問題点と言
わなければなりません。


アトランティス大陸の仮説
 これまでこの二つの古代大陸文明の存在場所について、さまざまな仮説が現れました。アト
ランティス大陸については長い間、プラトンの言うように大西洋にあるのではないかと考えられ
てきましたが、近年になってミノア文明の発掘が進むにつれ、エーゲ海のミノア文明がアトラン
ティスのモデルとなったのではないか、との説が有力になってきています。

現在では大西洋の海底の様子は科学的調査によって明らかにされており、かつて大西洋にア
トランティスが存在していた形跡は認められず、アトランティス“大西洋説’’は根拠を失ってい
ます。

 アトランティス“ミノア説”が有力視される中、近年になって、エドガー・ケイシーによる「1968
〜69年にアトランティスの神殿の一部がフロリダ沖の海底から発見される」という予言を信じ
た米国人(J・バレンタイン)が、現実にフロリダ沖バハマ諸島のビミニ島付近から謎の巨石遺
跡を発見するという驚くような出来事が起こりました。

この発見はアトランティス信者を興奮させることになりました。その後1977年、1986年に同
地域で別の遺跡が発見され、現在も調査が進められています。ケーシーの予言を信じる人々
にとっては、まさにそこがアトランティスではないか、ということになりましたが、調査の結果、そ
れは自然が造った地形であることが確定され、アトランティスの可能性は否定されました。


ムー大陸の仮説
 一方のムー大陸ですが、ジェームス・チャーチワードがインド滞在中にベンガル地方で出会っ
たヒンドゥー教の司祭に、古代から伝わる碑文に案内され、それを解読することによってムー
大陸の存在が明らかにされたということになっています。

しかし彼のこの一連の著述は、インチキであることが確かめられています。なぜなら謎の碑文
を発見した場所が初めはインドのある寺院とされていたのが、後の書ではさらに奥地のチベッ
トになるなど、重要な点での食い違いがあるからです。

彼がどれだけムー大陸の存在を実証的に扱っているかのようなポーズをとっても、ムー大陸の
存在はフィクション性が濃厚だと言わざるを得ません。

 それでも依然としてムー大陸文明の存在を信じる人々はいて、さまざまな仮説を出していま
す。それらの人達は、チャーチワードの著述を文字通りとらえるのではなく、もっと大きな含み
を持って考えようとします。

そうした中で一応の説得性のある見解は、かつて南太平洋上に存在していた島々(*海洋技
術を媒介としてできていた)を一つの文化圏と見なし、それをムー大陸であるとするものです。

そしてその島々は、氷河の後退による海面上昇によって海中に没したと言うのです。イースタ
ー島に現在残る巨石像はその遺跡であるとも言います。


アトランティス人からのチヤネリング? 自分の過去世はアトランティス人?
 ニューエイジにおいては、アトランティス・ムー古代大陸文明は宇宙人やUFOと同じように、
大きな部分を占めています。また日本の新新宗教などでも、それが頻繁に取り上げられていま
す。

 ニューエイジでは、かつてアトランティスの住人であったという“霊”からの通信が送られてき
ており、そこでは当時の様子が詳細に語られています。宇宙人と同様、アトランティス・ムー
は、チャネリング(霊界通信)の中に大きく入り込んでいるのです。

そうした霊(通信ソース)の代表に、シャーリー・マクレーンが彼女の著書の中で絶賛して有名
になった『ラムザ』がいます。ラムザはその後、あまりの品性のなさに霊性(霊的レベル)に疑
問が持たれるようになりましたが、このラムザは、三万年前のアトランティスの戦士であったと
述べています。

ラムザについては、言うまでもなく“低級霊”ですが、つい最近に至るまで、優れたチヤネリン
グ・ソース(通信霊)として賛美されていたのです。まさに『ラムザ』は、低級霊がいいように地上
人を翻弄するという典型的なケースと言えます。

 何十年・数百年前の地上人といった月並みな通信霊では物足りないということでしょうか?数
万年前の幻の文明であったり、地球以外の存在でなければ魅力を感じられないといった風潮
が蔓延しているようです。

残念なことに、スピリチュアリズムを受け入れた人々の中においても、アトランティス人からの
チャネリングを本物と錯覚している人達が見られます。

 一万年以上も昔地上にいたという霊が、どうしてあれほど程度の悪いレベルに止まっている
のでしょうか。わざわざ「自分はアトランティスにいた、アトランティス人としての過去世がある」
というような、興味本位のことを口走るのでしょうか。

軽々しく自分の身元を明かすような高級霊は一人としていません。ましてやアトランティスやム
ーといった地上人の好奇心をかき立てるような過去世に言及する者は、誰もいません。もし仮
に、かつて本当にアトランティスやムーに住んでいたことがあったとしても、高次のレベルにま
で至っている霊ならば、決してそうしたことは口にしないものです。

地上人の「魂の成長」に関係しないことは、何とか隠しておこうとするものなのです。なぜなら地
上人を好奇心に走らせることは、決して霊的成長にプラスにならないどころか、マイナスにしか
ならないからです。従ってアトランティスを引き合いに出すような通信霊は、初めから“低級霊”
と判断しても間違いありません。

 さらにその霊が語る内容を、スピリチュアリズムの高級霊の通信内容と比較してみることで
す。次のような点を確認すれば、内容のお粗末さはよりはっきりするでしょう。まず、「霊的真
理」と違ったことを言っていないか、チェックすることです。

特に再生についての知識は、霊の知的レベルを測る目安になります。“類魂”について正しく理
解しているかどうかです。またその霊が、霊界あげてのスピリチュアリズムの大計画について
認識し、その一員として認められているかどうかというのも重要なことです。

そして語る内容が、常に地上人の魂の成長を促すものとなっているか、上層の霊界のコントロ
ールの下に置かれているか、地上人の好奇心を煽り立てるようなことを言っていないか、どち
らでもよいことを多く語っていないか、こうした点をチェックすることです。それによって、どの程
度の霊であるのか、おのずと判別できるはずです……。



スピリチュアリズムに係わる問題とは
 分かってみれば、アトランティスやムーの話題はすべて想像上にのみ有り得ることで、事実で
はありません。しかしフィクションであっても、それを真に受け信じている人々が実際多くいるの
です。

アトランティス・ムー信仰によって最も困った問題は、安易な前世探しのブームを作り出し、本
来厳粛であるはずの再生の問題を興味本位の対象にすり替えてしまうことです。空想としか言
いようのない再生観を、人々の中に浸透させてしまうことです。

 もう一つの問題点は、霊界通信をいい加減な遊び半分の道具としてしまうということです。霊
界通信は本当は高級霊からの教訓を受けるための神聖な手段なのですが、まともな人々をそ
れから遠ざけることになってしまうのです。

さらには低級霊にからかいの場所を提供し、霊界通信自体のイメージを地に貶めることになり
ます。好奇心に駆られた人々は、霊界人からのチャネリングでは満足できないとみえて、それ
を宇宙人に求めたり、遥か大昔のユートピアのアトランティス人に求めるという幼稚なことをし
ているのです。

 アトランティスやムーがらみで語られる前世譚や再生譚、またチヤネリングのすべてが、「霊
的事実」から全く掛け離れたものであり、単なる想像上の作り事か低級霊のからかい以外の
何物でもないことを、よくよく心に留めておくべきです。

そうした程度の悪い好奇心によって作られたフィクション・ストーリーが大手を振るうような状況
を、いつまでも見過ごしていてはならないのです……。



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