◇ニューズレター21号
2003年 4月


目 次

高級霊の切実な願いに応えて、
神の兵士に志願しましょう 

・スピリチュアリズム普及に対する高級霊達の真剣さ
・高級霊の人格に清められ、啓発されて
・シルバーバーチの悲痛な訴え
・私達は未熟な道具だけれど…… 

 

スピリチュアリズムと先祖供養
シリーズ1
はじめに

 
第1章 先祖供養という宗教的慣習は、
   どのようにして成立したのか 
 1、先祖供養は釈迦(シャカ)仏教とは無関係 
   ・仏教本来の死生観――「輪廻転生」
   ・輪廻思想と先祖供養の矛盾
   
 2、シャカ仏教の“変身のプロセス”
   ・中国仏教の成立
     ――インド仏教のシャーマニズム化
   ・初めから「先祖霊崇拝」の要素を
     持っていた日本仏教

 3、シャーマニズム的要素が温存された
    東北アジア文化圏
   ・シャーマニズムは世界共通の「霊魂信仰」
   ・教理宗教とシャーマニズムの衝突
   ・東北アジアのシャーマニズムの特徴 

 4、儒教圏(中国・台湾・朝鮮・華僑社会)
    における先祖崇拝と霊魂観
   ・スピリチュアリズムと儒教の霊魂観
   ・儒教の“魂魄説”
   ・墓への異常なこだわり

 5、スピリチュアリズムから見た、
    シャカ仏教と日本仏教の評価 
   ・シャカ仏教についての評価
   ・日本仏教についての評価

 
第2章  スピリチュアリズムから見た
 正しい先祖供養
      ――スピリチュアリズム的“先祖霊救済方法”
 

 1、平均的人間の死の直後の様子
   ・平均的人間の死後のプロセス
     @死の自覚と、迎えの霊達との対面
     A幽界の休息所
     B幽界での審判
   ・平均的他界者は、霊界の人々に
     とっては“問題児”

 2、幽界入りのプロセスの落伍者
    ――“地縛霊”
   ・地縛霊になる他界者
   ・さまざまな地縛霊のケース

 3、地縛霊に対する救済プロセス
   ・冷酷で極端な利己主義者に対する
     更生の道
   ・自殺者に対する更生の道
   ・地縛霊の意識の変化と、幽界の救済霊達
   ・地縛状態から抜け出す最後の試練
     ――“妨害霊”との闘い 
 4、スピリチュアリズムにおける先祖供養とは
    ――地縛霊となった先祖霊の救済
   ・先祖供養とは、“地縛霊”となった
     先祖を救うこと
   ・先祖供養の対象となる先祖霊は、
     どのくらいいるのか?
   ・地縛化した先祖の救済は、
     霊界サイドで責任を持って進められる
   ・地上人の先祖供養の役割は?
   ・愛の念を送る
   ・真理を語って聞かせる

  5、「先祖の罪を子孫が償う」という
     考えの間違い

  6、“おもちゃ”が必要な人には…… 
 
    スピリチュアリズム・ニューズレターについて
 

ニューズレター


 高級霊の切実な願いに応えて、
神の兵士に志願しましょう 


スピリチュアリズム普及に対する高級霊達の真剣さ
 高級霊達の「地上人類を救済しよう」という決断と、それを実現するための用意周到な準備、
そして高級霊界あげての計画的な働きかけによって、地球上でのスピリチュアリズム展開が可
能となりました。

今このときも、高級霊達は力を結集して、地上に対して必死の働きかけをしています。世界に
向けて、アジアに向けて、日本に向けて、そして一人一人に向けて、霊界からの働きかけがな
されています。その結果、人類史上最大のプロジェクトが着々と進行しているのです。

 シルバーバーチは、霊界の高級霊達の「スピリチュアリズム普及」にかける決意の堅さと真
剣さをたびたび披露しています。自らを犠牲にして、一切の見返りを期待せず、何としても地上
人類に救いの道を示そうとする彼らの“使命感”の強さを繰り返し述べています。

スピリチュアリズムは、自分の利益を全く求めず、地上人類の救いだけを願う高級霊達の“犠
牲的精神・真の愛”から、すべてが展開しているのです。

高級霊の人格に清められ、啓発されて
 高級霊達の私利私欲のない純粋な奉仕性を知れば知るほど、私達には、高級霊の前に誇
ることができるものが何ひとつないことを実感させられます。それと同時に「高級霊の姿を見な
らって、一歩でも彼らに近づきたい」と思うようになります。

 シルバーバーチに代表される高級霊達の人格に触れるたびに、私達の醜い心は浄化されま
す。彼らの光輝な精神と純粋さに啓発されて、物質に閉じ込められていた心がたちまち広がり
ます。

この世の利害にとらわれていたケチくさい生き方が、馬鹿らしく感じられるようになります。「自
分のことだけで精いっぱい、他人のことなどかまっていられない」と思っていた狭い心が洗わ
れ、自然と「自分のことより他人のことを優先したい」と思えるようになります。

 高級霊の清らかさと真の愛情によって、私達の心の持ち方や考え方が改められ、物質世界
の醜さから抜け出せるようになるのです。そして「もう一度、ゼロから人生をやり直そう」との決
意を固めることができるようになるのです。

シルバーバーチの悲痛な訴え
 次の言葉は『シルバーバーチの霊訓』の中で、最も感動的なものの一つです。私達地上人
に、シルバーバーチが霊界の高級霊達の思いを代弁して、必死の語りかけをしています。どう
か、じっくり読んでみてください。
 
 「しかし忘れないでいただきたいのは、皆さん方のような地上での道具がなくては、わたした
ちも何も為し得ないということです。皆さんはわたしたちに闘いのための武具を供給してくださ
っているようなものなのです。皆さんの力をお借りする以外に、地上には頼りにすべき手だて
が何もないのです。喜んでわたしたちに身をゆだねてくださる人以外に、道具とすべきものが
ないのです。

 その道具が多すぎて困るということは決してありません。こちらの世界では、使用に耐えられ
る人物の出現を今か今かと待ちうけている霊がいくらでもいるのです。わたしたちの方から皆
さんを待ち望んでいるのです。皆さんがわたしたちを待ち望んでいるのではありません。(中
略)

 もっともっと多くの人材――これがわたしたちの大きな叫びです。いつでも自我を滅却する用
意のできた、勇気と誠意と率直さにあふれた男女――霊力がふんだんに地上世界へ降下し
て、人生を大霊の意図された通りに豊かさと美しさと光輝にあふれたものにするためなら、い
かなる犠牲をも厭わない人材がほしいのです。」   (道しるべ・115)


 何と切々たる、そして何とストレートな訴えかけでしょうか。この言葉を読むたびに、高級霊達
の心情が伝わってきて、胸が締めつけられます。自己の利益を一切求めず、ひたすら地上人
の救いのためだけに犠牲を買って出てくれた高級霊達、その高級霊達が、私達に心の底から
絞り出すように「自分達の道具になってほしい!」と訴えているのです。

霊界の人々の方から、スピリチュアリズムに志願してくれる地上人を心から待ち望んでいる、と
言っているのです。

 私事になってしまいますが、私達のサークルではこれまで、繰り返し繰り返しこの言葉を読み
返し、自分達の姿勢を正してきました。そして「自分達の人生をスピリチュアリズムのために捧
げよう、高級霊達と一緒になってスピリチュアリズム普及のための捨て石になろう」との出発点
の決意を確認してきました。 

私達は未熟な道具だけれど……
 現実の私達は、本当に足りなさばかりを抱えています。心には、醜い思いがいっぱい詰まっ
ています。自分の清らかさにも、愛の深さにも、自信が持てません。とても立派な神の道具とは
言えません。未熟さばかりが目立ち、高級霊の道具として到底、合格点はもらえそうにありま
せん。

 しかし、そうした私達の足りなさ・醜さは、神はもとより高級霊達も細部に至るまで知り尽くして
います。その上で私達に、「地上の道具」として立つことを期待してくれています。私達の決意
ひとつで高級霊達は、私達をスピリチュアリズムのために最大限に用いてくれるのです。

 自分は年老いてしまったからとか、能力がないからとか、今は忙しくて十分な時間がとれない
などということを心配する必要はありません。高級霊の方から、私達を待ち望んでくれているの
です。高級霊は地上人の何十倍・何百倍もの力を持っていることを忘れてはなりません。

その高級霊が全面的に援助してくれる以上、必ず最高の奉仕の場が与えられるようになりま
す。自分なりの心配は、きっぱりと捨て去ることにしましょう。

] 自分の足りなさ・未熟さ・醜さを嘆くより、自分のすべての意識とエネルギーを、人々への奉
仕とスピリチュアリズムへの貢献に向けていきましょう。シルバーバーチは―「皆さん方には、
精いっぱいやることだけが期待されているのです」と言っています。

シルバーバーチのこの言葉を素直に受け入れ、「スピリチュアリズムのために、可能なかぎり
道具として使っていただきたい」との思いで心を占め、自分の人生と時間を高級霊に委ねるこ
とにしましょう。

 高級霊の道具としての歩みが始まったときから、皆さんにとって素晴らしい人生が開かれる
ことになります。他の地上人には決して真似のできない“最高に価値ある人生”を歩み始める
ことになります。

どうか、かけがえのない皆さん方の地上人生を、最高に価値あるものへと高めてください。死
後、霊界に入ったとき、高級霊達から「よくぞ頑張ってくれた」とのお褒めの言葉をいただける
ように、ともに邁進してまいりましょう。



スピリチュアリズムと先祖供養
シリーズ1

はじめに
 「スピリチュアリズムでは、どのように“先祖供養”を行ったらよいのでしょうか?」―これまで
多くの方々から、こんな質問をお寄せいただいております。

 先祖供養は日本人の中に、当たり前の宗教的慣習として定着しています。そして人々は、先
祖供養と仏教は一体不可分のものと思っています。しかしスピリチュアリズム発祥の欧米に
は、日本で行われているような先祖供養はありません。

 スピリチュアリズムでは、先祖供養をどのように考えたらよいのでしょうか。スピリチュアリズ
ムは、あの世には未熟な霊が数多く存在していることを明らかにしていますが、そうした霊達に
対して、これまでの先祖供養は果たして意味があったのでしょうか。

 日本スピリチュアリズムの祖と言うべき浅野和三郎は、古神道とスピリチュアリズムを折衷
(せっちゅう)して、独自の心霊観を展開しました。浅野の説く神霊学には、日本古来の死生観
が色濃く見られます。浅野の影響を受けたスピリチュアリストの中には、現在でも先祖供養の
必要性を主張する人々がいます。

 一方、海外のスピリチュアリズムには、日本のような先祖供養の必要性を説く人はほとんど
いません。憑依現象に対する除霊などが行われることはあっても、血縁関係のある先祖霊に
向けて、定期的に交わりを持ったり働きかけをするようなことはありません。

 日本のスピリチュアリズム界では、今日まで先祖供養について徹底した議論がなされたこと
はなく、先祖供養の問題は曖昧(あいまい)なままに残されてきました。先祖供養については、
各自が思い思いの見解に基づいて自説を展開するだけで、霊界通信に照らし合わせて検証す
るといったことがなされずにきました。

 シルバーバーチは、地上の宗教的慣習や儀礼を“玩具(おもちゃ)”に譬(たと)えています。
「それ(宗教的慣習や儀式)が必要な人には敢えて止めさせる必要はないが、成長とともに自
然と“玩具(おもちゃ)”は卒業するようになる」と述べています。宗教とは純粋な無私の奉仕(サ
ービス)であるとの立場に立てば、地上の宗教が行う儀式はどちらでもいいものということにな
ります。

 日本人に慣習として定着している先祖供養は、シルバーバーチの言う“おもちゃ”に相当する
ものなのでしょうか。それとも霊的事実に照らしたとき確たる根拠のあるもので、欧米のスピリ
チュアリズムがいまだに手がけていない最先端の霊的行為と言うべきものなのでしょうか。

世界各地のスピリチュアリストも、今後は取り入れていくべきものと考えたらよいのでしょうか。
 ありがたいことに私達は、スピリチュアリズムによって霊界の事実と霊的知識を手にすること
ができました。

その膨大な知識はすべて霊界から与えられたもので、地上世界から霊界を覗(のぞ)き見して
得られたものとは、真実性において天と地ほどの違いがあります。それは霊界という現地から
直接もたらされた確実な情報なのです。

現在ではそうしたスピリチュアリズムによって明らかにされた霊的事実・霊的知識に基づいて、
先祖供養の是非を論じることができるようになっています。また高級霊の霊界通信によって、
先祖供養に関係する高級霊の見解を直接知ることも可能となっています。

 今回のニューズレターでは、スピリチュアリズムの観点から地上の「先祖供養」について考え
てみることにします。スピリチュアリズムは今後、確実に日本全土に普及することになります
が、その際、日本人の中に定着している先祖供養についての明確な見解を示すことが必要と
なります。心霊世界に関心のある人ならば、当然のこととして先祖供養に関心を持たざるを得
ないはずです。

 また先祖供養という慣習は日本だけにとどまらず、中国や台湾・韓国・東南アジアの華僑社
会といった“儒教文化圏”にも共通して見られます。そこでは伝統的に先祖霊崇拝・先祖霊信
仰が行われ、これが日本の先祖供養以上に重要視されています。

先祖霊を祭り、儀式を執り行うことが子孫の最大の義務となっています。いずれ儒教文化圏に
も間違いなく、スピリチュアリズムは広がっていくことになります。こうした国々においてスピリチ
ュアリズムが正しく理解され受け入れられるためには、先祖霊崇拝・先祖霊信仰に対するスピ
リチュアリズムの見解を明確にしておくことが必要となります。

 ニューズレターでは「先祖供養」に関する問題を、2回シリーズで取り上げます。今回はその
前半です。



第1章  先祖供養という宗教的慣習は、どのようにして成立し
たのか


 1 先祖供養は釈迦(しゃか)仏教とは無関係
 
 大半の日本人は、先祖供養は仏教本来のものであり“シャカの教え”であると信じています。
またお盆の墓参りなども、仏教の習慣そのものであると思っています。

 しかし、ほとんどの日本人が持っているこうした常識は、実は大きな錯覚なのです。このよう
に言うと、おそらく多くの方々はびっくりされるでしょうが、先祖供養もお寺にある先祖代々の墓
も、毎年定期的に行われるお盆の行事も、シャカの教えとは無関係なのです。まず、この点に
ついて見ていくことにしましょう。

仏教本来の死生観――「輪廻転生」
 仏教はシャカの悟りから出発した“シャカの教え”であることは、今さら言うまでもありません。
その仏教は「輪廻思想」を大前提としています。シャカは、生・老・病・死という“四苦(しく)”は人
間の宿命であり、この世に生まれて生きること自体を苦しみとしました。

シャカはこの世を苦しみの世界ととらえたのです。その理由は、私達が人間として生きる現世
は「輪廻」というサイクルの中にあると考えたからです。

 仏教が目指す最終目的は、悟りを得て輪廻のサイクルから抜け出すことです。人間は輪廻
のサイクルから抜け出たとき、本当の幸せになれると考えます。もし、ある人が悟りを得て解脱
(げだつ)するならば、長く苦しい輪廻のサイクルから卒業できるようになります。仏教における
さまざまな修行は、輪廻から抜け出すことを目的としたものなのです。

 輪廻思想では、人間は解脱できないかぎり、肉体の死とともに一定の期間を経て、次の輪廻
の世界に生まれ変わることになります。人間が輪廻する以上、前世と現世・来世との間に、何
らかの個性の同一性があることを前提としなければなりません。すなわち「輪廻の主体者」とし
ての存在を認めなければなりません。

 では、その輪廻の主体者とは具体的に何なのでしょうか。シャカの死後、この点が大きな問
題となりました。私達スピリチュアリズムを受け入れた者にとっては、「それは霊魂に決まって
いる」ということになりますが、シャカは霊的自我としての霊魂の存在を認めませんでした。実
際にスピリチュアリズムで言う“霊魂”こそが再生の主体者なのですが、シャカはそれを認めな
かったのです。


*新宗教や新新宗教では、シャカは死後の霊魂の存在を信じていたかのように言っています
が、それは勝手な解釈に過ぎません。特にシャカの再誕や霊言を主張するところ(*GLAや幸
福の科学など)では、シャカが霊界や霊魂の存在を受け入れていたように教えていますが、事
実ではありません。

 スピリチュアリズムに導かれた人々の中には、以前にこれらの宗教を信じていた方も多いだ
けに、シャカに対する認識を間違えがちです。そうした問題に関心のある方は、優れた現在の
仏教研究書(*『中村元選集』など)に目を通されるのがよいでしょう。


 シャカは、輪廻については事実としながら霊魂の存在を認めなかったために、弟子達の間に
混乱が生じるようになりました。その結果、シャカの死後、理解に苦しむような難解な解釈がつ
くられることになりました。もちろん霊魂の存在を否定したシャカの見解も、弟子達によってつく
られた難解な見解も間違っていますが、ここではその問題には深入りせず別の機会に譲るこ
とにします。

 肝心なことは、シャカは輪廻思想に基づき「死とともに肉体は単なる抜け殻になる」と考えて
いたという点です。抜け殻になった死体は無用のものですから、火葬にして捨ててもよいという
ことです。これが仏教本来の死体に対する考え方であり、この点についてはスピリチュアリズ
ムと全く同じ見解に立っています。火葬後の骨には何の意味もなく、山や川に捨てても、いっこ
うに構わないということなのです。

 人間は悟りを得て、輪廻のサイクルを脱け出さないかぎり、再びどこかの世界に生まれ変わ
ることになります。仏教では、死後は“中有(ちゅうう)”という時間に入ると考えます。 その長さ
は49日とされ、その間に次に生まれる場所が決められることになります。

そこで少しでもよい所に生まれ変われるように、僧を通じて供養します。供養は初七日に始ま
り、7日毎に行われ、49日目に、本人の生前の行為・善悪に応じて生まれ変わる所が決まるこ
とになります。

 どこに生まれ変わるかということですが、それには6つの候補となる世界があります。すなわ
ち天上界・人間界・修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界です。いずれの世界に生まれ変わるにせ
よ、輪廻のサイクル内にとどまる以上は、苦しみの生活が続くことには変わりありません。

自分が所属する世界での死を迎え、再び生→死→生→死を繰り返し続けることになるのです。
解脱して仏とならないかぎり、すなわち成仏しないかぎり、いつまでも輪廻のサイクルを抜け出
すことはできません。

 仏教の創始者であるシャカは「解脱して仏となった」と宣言しましたが、そのシャカも解脱する
以前は、輪廻のサイクルの中を転生して苦しみの体験をしていたということなのです。また“輪
廻の論理”に従うならば、シャカは解脱して輪廻が不必要となった以上、地上人に再生する必
要はなくなったということであり、新新宗教などで言われるシャカの再誕などということはあり得
ないことになります。

輪廻思想と先祖供養の矛盾
 仏教では結局は、「解脱して成仏する」か、「輪廻転生という苦しみの中にいる」かのどちらか
しかありません。これを理屈どおりに受け入れるなら、私達の先祖は成仏していない場合に
は、死後49日を経ていれば、別人として人間界に生まれ変わっていたり、動物界に生まれ変
わって犬やネコになっているかも知れないということになります。

 この場合は、すでに生まれ変わりを果たしているのですから、当然「先祖供養」そのものが全
く意味をなさないことになります。シャカの教えによれば、何十年も前に死んだ血縁者の供養・
先祖代々の供養などは全くのナンセンスであり、不必要なものということになります。

さらに言えば、もはや本人は別の存在として新たな肉体を持って生まれ変わっているのですか
ら、抜け殻である肉体や骨は用のないものであり、墓も必要ないということになります。

 日本のお寺にある墓や位牌(いはい)には、わざわざ「○○家先祖代々」と記されています
が、こうしたことは“シャカ仏教”ではあり得ないことなのです。ところが日本人の信じる仏教で
は、先祖供養と墓がきわめて大切なものとされ、信仰の中心となっています。もし日本の仏教
から先祖供養と墓を取り除いたら、何がなんだか分からなくなってしまうことでしょう。

 このように考えてみると、シャカの説いた仏教と、日本人が信じる仏教の違いが浮き彫りにさ
れてきます。極論すれば、日本人はシャカの教えに反した仏教を信仰しているのです。日本の
仏教で常識となっている先祖供養や墓の存在は、シャカの教えとは矛盾しているのです。とこ
ろが実際には「輪廻」と「先祖供養」という全く相反する考えがそのまま取り入れられ共存してい
ます。

 これを別の角度から見るなら日本仏教は、さまざまな要素の寄せ集めから成り立っていると
いうことになります。ある研究者によれば、日本仏教の8割はインド仏教とは無関係な先祖供
養、1割が心の救済を求めてのインド仏教、1割が現世利益を求めての道教の要素から成り
立っていると言われます。

確かにその通りだと思います。もちろん仏教学者や学識僧侶は、こうした見解に猛反発し、日
本仏教の中心はどこまでもインド仏教であると主張するでしょう。

 しかし圧倒的大多数の在家信者は、「先祖供養」と「死後の救い」を仏教に期待しているのが
現実なのです。シャカの教えを忠実に実践して、悟りを得て輪廻を卒業しようと思っている人な
ど皆無と言ってもよいでしょう。悟りを得られるなら墓は不要だとしているお寺や宗派は実際に
は存在しません。

 これを別の角度から見るなら日本仏教は、さまざまな要素の寄せ集めから成り立っていると
いうことになります。ある研究者によれば、日本仏教の8割はインド仏教とは無関係な先祖供
養、1割が心の救済を求めてのインド仏教、1割が現世利益を求めての道教の要素から成り
立っていると言われます。

確かにその通りだと思います。もちろん仏教学者や学識僧侶は、こうした見解に猛反発し、日
本仏教の中心はどこまでもインド仏教であると主張するでしょう。

 しかし圧倒的大多数の在家信者(ざいけしんじゃ)は、「先祖供養」と「死後の救い」を仏教に
期待しているのが現実なのです。シャカの教えを忠実に実践して、悟りを得て輪廻を卒業しよう
と思っている人など皆無と言ってもよいでしょう。悟りを得られるなら墓は不要だとしているお寺
や宗派は実際には存在しません。


 2 シャカ仏教の“変身のプロセス”
 
 シャカ仏教(シャカの教え)は、どうしてこれほどまでに大きく変身してしまったのでしょうか。白
を黒にするほどの根本的変化・180度の大変化なのです。仏教は本来的には「生者の悟り」
のための宗教であるはずなのですが、それが「死者の救い」のための宗教に変わってしまって
いるのです。

シャカがこうした日本の仏教を見たら、それを自分の教えと認めることは決してできないはずで
す。シャカの教えの根本を大きく変えてしまった日本仏教は、果たして仏教と言ってよいものな
のでしょうか。そうした疑問が湧いたとしても当然ですし、現に多くの研究者がそのように思って
います。

 しかし現実に我が国では、シャカの教えと真っ向から対立する「先祖供養」を中心とした仏教
が存在し、日本人の宗教的感情を育んできました。人間にとって最大の課題である死への恐
れ・不安に対して、日本人は先祖供養という形で解決をはかってきました。もし先祖供養や墓
参りを日本の仏教から取り去ったなら、多くの日本人は仏教を信じなくなってしまうことでしょ
う。
 インドに発生したシャカ仏教が、似ても似つかぬ日本仏教になっていったのは、それなりの理
由があります。次にそれを見ていくことにします。

中国仏教の成立――インド仏教のシャーマニズム化
 インド仏教が中国に入ってきたとき、中国では先祖霊を崇拝する“シャーマニズム”が強く
人々の心を支配していました。そしてインドから入ってきた仏教の輪廻思想と、真っ向から対立
することになりました。

なぜなら輪廻思想のもとでは、中国人にとって最も重要な先祖霊も存在しないことになり、先祖
霊の崇拝自体が、意味をなさなくなるからです。儒教は、中国人の先祖霊崇拝・先祖霊信仰と
いうシャーマニズムを基礎にして、家族理論と政治理論を積み上げて成立した広大な思想体
系です。儒教は単なる倫理道徳ではなく、底辺に「先祖崇拝」という宗教的要素を持った宗教
なのです。

 先祖霊への崇拝を土台とする儒教は、中国民衆の心をつかみ、外来のインド仏教と鋭く対立
することになりました。やがてそうした仏儒の抗争の中で、仏教サイドが譲歩し、輪廻思想とは
全く無関係な先祖霊崇拝・先祖霊信仰を取り入れるようになりました。

その際、仏教サイドが考え出したものが「偽経(ぎきょう)(インド原典のない仏典)」だったので
す。インド仏教と違うことを教えとするために、新たに偽の経典をつくることを思いついたので
す。
 
偽経の代表が、『盂蘭盆経(うらぼんきょう)』と『父母恩重経(ふぼおんじゅうきょう)』です。前
者はお盆の行事の根拠となる経典で、仏教における祖先祭祀の合理化をはかったものです。
後者は現世の孝を説く経典で、子供を育てた父母の恩の重いことを述べたものです。

仏教サイドから、儒教の孝を取り入れようとした結果つくられた偽経です。こうしてインド仏教と
は異なる中国仏教が出来上がることになりました。中国仏教とは、別の言い方をするならば
「儒教化した仏教」ということになります。

初めから「先祖霊崇拝」の要素を持っていた日本仏教
 中国においては紀元前2世紀には、儒教は国家公認の学問としての地位を確立していまし
た。紀元前後に伝来したインド仏教は一時は盛んでしたが、儒教に取って代わることはできま
せんでした。

儒教は先祖霊崇拝や葬式を中心とする宗教として大衆の心をつかみ、中国の中心的宗教とし
ての地位を確たるものにしてきました。そして先に述べたように、仏儒の抗争の末に仏教サイ
ドが譲歩し、仏教は自らのうちに先祖霊崇拝を取り込むことになったのです。

 こうして儒教の先祖霊崇拝の影響を受けて大変身した中国仏教が、その後、日本に伝来し
たのです。先祖霊を崇拝するのは中国人ばかりでなく、古代の日本人も同じでした。日本では
仏教伝来以前から、「先祖霊崇拝・祖霊信仰」が行われていました。


*民俗学の柳田国男によれば、日本人には「あの世にいる先祖は山や海に住んで、お盆や正
月に子孫の元に帰ってくる」との信仰があったということです。太古の日本では「先祖の霊は死
後、時間の経過とともに浄化され、やがて氏神になり子孫を守るようになる」との信仰がありま
した。また原日本人の末裔と考えられるアイヌの研究では、アイヌには霊魂観に基づくあの世
とこの世の往復についての信仰があると報告されています。


 古代の日本には、こうした中国と共通するシャーマニズム的土壌があったために、中国から
伝来した仏教は、日本古来の先祖霊崇拝と無理なく融合することができました。日本における
仏教は、初めから先祖霊崇拝や供養・喪礼を強く前面に出したものだったのです。そしてこれ
が日本に広まり、我が国における宗教の中心的立場を確立していくことになりました。

 本来のインド仏教には、墓石(墓標)を立てることや墓参りはありません。日本の家庭に見ら
れる仏壇は、仏教本来のものではなく、儒教における祠堂(しどう)がミニチュアとして取り入れ
られたものです。

また仏壇や寺に安置される位牌も、儒教の招魂儀式で呼び寄せた祖先の霊を憑かせる「神主
(しんしゅ)(依代(よりしろ))」を模倣したものです。もちろんインド仏教にはこうしたものは存在
しません。このように日本仏教には、中国の儒教的要素(東北アジアのシャーマニズム的要
素)が強く反映しています。日本仏教は、儒教とインド仏教が深く混交しているのです。


 3 シャーマニズム的要素が温存された東北アジア文化圏
 
シャーマニズムは世界共通の「霊魂信仰」
 シャーマニズムは従来の宗教学では、原始レベルの宗教形態・未熟な宗教レベルと考えら
れてきました。シャーマニズムでは“シャーマン”と言われる霊媒が、あの世にいる霊と交流をし
ます。祈祷や呪術にともなうトランス状態で、あの世のメッセージが地上人に伝えられます。

また悪霊に取り憑かれた地上人から、悪霊を取り除いて病気を治したりします。沖縄のユタや
東北のイタコやゴミソは、こうしたシャーマンですし、神社にいる巫女(みこ)も、もとは同じくシャ
ーマンだったのです。

 シャーマニズムは、現在でも世界各地に見られます。原住民族のいる地域ばかりでなく、先
進国にも“裏の宗教”としてしっかり根付いています。日本ではシャーマニズムは、組織宗教
(仏教・神道)からは“淫祠邪教(いんしじゃきょう)”として軽視され、排斥されてきました。

 シャーマニズムは先進諸国では陰の存在として扱われるのが普通ですが、シャーマニズムの
存在自体は、いつの時代にも決して絶えることはありませんでした。それは民衆が、心の底で
最も望んでいたものであったからなのです。

教理宗教とシャーマニズムの衝突
 世界の宗教史を大局的に眺めると、宗教はシャーマニズムと教理宗教のせめぎ合いの中で
進んできたと言うことができます。教理宗教の代表格がキリスト教ですが、キリスト教は4世紀
にローマ帝国の国教となってからは、土着民の間で行われていたシャーマニズム的信仰や風
習を排斥・迫害するようになります。

心霊現象をサタンの仕業として弾圧し厳しく取り締まり、やがて悪名高き魔女狩り・魔女裁判に
至るようになります。こうして人間のつくった人工的教義によって、自然な霊的現象が排除され
ることになりました。

 自然のシャーマニズムと、人工的教えによる教理宗教の衝突の中で宗教の歴史は続いてい
きますが、両者の力関係によって、さまざまな状況が生じることになります。キリスト教のよう
に、教理宗教が圧倒的な支配力を持ってシャーマニズムを完全に抑圧・抹殺するケース、教理
宗教とシャーマニズムが共存して二重信仰の世界をつくり上げるケース、中国や日本の仏教
のように、教理宗教が土着信仰(シャーマニズム)と折衷・融合して自らを変身させるケースが
存在します。

東北アジアのシャーマニズムの特徴
 シャーマニズムは古くから世界各地において存在していましたが、その中で東北アジア地域
(中国・朝鮮・日本)におけるシャーマニズムには、共通する特徴がありました。それは対象とし
ているものが、種々雑多な霊的存在や精霊ではなく、圧倒的に血縁関係のある「先祖霊」であ
るということです。

自分の血縁者・先祖霊を招き降ろすことを原則としているのです。もちろん先祖霊崇拝・先祖
霊信仰は、東北アジア地域だけのものではなく世界各地にも見られますが、その重要視の度
合いが、他地域のシャーマニズムとは比較にならないのです。先祖霊を対象とするという点
が、東北アジア地域のシャーマニズムに共通している特徴なのです。
 
  現代の考古学や歴史学の研究成果が示しているように、日本では神道が一定の形式を整
える以前(*それを“古神道”と呼ぶことがあります)は、 シャーマニズム的な自然宗教が行わ
れ、素朴な祖霊崇拝・祖霊信仰がなされていました。

まさに東北アジアのシャーマニズムとの共通性が見られます。先に述べた通り、中国から伝わ
ってきた仏教が日本人にそれほど抵抗なく受け入れられたのは、日本古来から存在していた
先祖霊崇拝と内容的に一致していたからなのです。

 「先祖霊を崇拝し、先祖霊を地上に招き呼び寄せ、祭り(儀式)を執り行う」――これは儒教
における最も重要な内容であり、これなくして儒教は成立しません。日本人が一般に考える儒
教とは“倫理道徳”としての儒教であり、儒教の礼節の部分だけを取り上げたものです。

それは儒教の最も本質である先祖崇拝という宗教的部分・宗教的土台を取り除いたものなの
です。したがって日本人の考える儒教を中国人や韓国人が見ると、「これは本当の儒教ではな
い」ということになってしまいます。日本では、儒教の宗教的本質である先祖崇拝は仏教の中
に取り込まれ、外見上は儒教との関連性が分からなくなっています。

 儒教では、先祖霊を崇拝する祭りは、地上の血縁的子孫にとっての一番重要な責任と見なさ
れています。特に家長(長子)には無条件の義務とされています。こうした先祖崇拝の信仰は、
血縁関係の永続性の重視につながっていきます。

血のつながりが絶えるならば、先祖崇拝の祭りの道が途絶えることになるからです。東北アジ
ア地域では、血縁関係が地上における最も重要な人間関係であり、血統維持がきわめて重要
視されますが、それにはこのような儒教的背景があるのです。


*スピリチュアリズムでは霊的関係を血縁関係より重視しますが、この点でスピリチュアリズム
と儒教は、真っ向から対立することになります。スピリチュアリズムでは、死後は地上の血縁関
係は消滅し、霊的関係のみが存続するようになるとしています。霊界では“類魂”という最も純
粋な霊的人間関係の中に入って、新たな霊的家族の一員となるのです。霊界では血縁者とい
えども、真の霊的愛情がないかぎり赤の他人になってしまいます。

 スピリチュアリズムから見たとき“儒教”は、きわめて物質的要素の濃厚な宗教と言えます。
本当の意味での霊的要素は、ほとんど存在しない宗教です。古代日本人は、「先祖霊は浄化
の果てに氏神となって子孫を守る」というような死生観を持っていましたが、これは儒教の死生
観に通じるものがあります。

 浅野和三郎の神霊学も、こうした死生観を取り入れたものとなっており、“守護霊”は祖先霊
の中から選ばれるとしています。それはスピリチュアリズムの類魂の事実に照らしたとき、明ら
かに間違っています。スピリチュアリズムの“類魂観”の本質に係わる重大な勘違いをしている
ことになります。 


 4 儒教(中国・台湾・朝鮮・華僑社会)における先祖崇拝と霊魂観
 
 先祖の霊に対する崇拝は、儒教が今なお支配的な中国や台湾・朝鮮・華僑社会では色濃く
見られます。祭壇には多くの香が焚かれ、山のような供物が並べられます。その前で地上の
子孫が儀式を執り行います。

儒教成立以前には、シャーマン(祈祷師)が祭壇の前で呪文を唱え、狂ったように踊りまくり、
異様で奇怪なおどろおどろしい雰囲気の中で、先祖の霊が地上に招かれ、地上の子孫との交
わりが行われていました。その場にいる子孫の中にはシャーマンのトランス状態が伝わり、気
を失ったり、ヒステリー状態になったり、大声で泣きわめく者も現れました。

  現在の儒教圏におけるさまざまな先祖崇拝の祭り・儀式にも、こうしたシャーマニズム的要
素が強く残っています。古代日本における先祖の霊に対する儀式も、これと似たものだったと
推測されます。

スピリチュアリズムと儒教の霊魂観

 さてスピリチュアリズムでは、交霊会で出現するのは、あの世(霊界)にいる霊達とされていま
す。かつての地上人が死後の世界に霊魂として生き続け、交霊会などを通じて地上人とコミュ
ニケーションをすることができるとしています。スピリチュアリズムには、こうした明確な霊魂観
があり、交霊会はその霊魂観を前提として行われるものです。

 東北アジアのシャーマニズムでは先祖霊を地上に呼び出しますが、そこでは当然のこととし
て、死後も先祖はある種の霊魂的な存在として生き続け、その霊魂と子孫が交流を続けるとい
うことが基本的な枠組みとなっています。この点において、儒教における先祖崇拝の儀式は、
スピリチュアリズムと共通の霊魂観に立っていることになります。
 儒教は原則的にはこうした霊魂観を前提としますが、その一方で儒教の歴史の中では、スピ
リチュアリズムとは一致しない霊魂観が主張されるようなこともありました。


*儒教には、もともと仏教のような“形而上学(けいしじょうがく)”がないという弱点がありまし
た。その弱点を補おうとして登場したのが、11世紀の宋学(朱子学)でした。儒学の理論的な大
成化・発展を目指したものです。

そして宇宙の万物は陰陽二気(おんようにき)の織り成しによって存在しているという“理気二
元論”という壮大な思想哲学体系をつくり出しました。

 朱子はこの理論によって、儒教における先祖崇拝・招魂儀式の知的解釈に取り組みました。
儒教での死後の「魂魄(こんぱく)」は「鬼神(きしん)」とも呼ばれていましたが、 その鬼神なる
ものの解釈をめぐって、さまざまな論争が起こりました。(*「魂魄」については、すぐ後で説明
します。) 

 これが“鬼神論争”と言われるものですが、朱子はその鬼神を、単なる気の集散の状態と説
明し、霊魂としての存在であることを否定しようとしました。これが江戸時代の日本の朱子学者
の頭を悩ませることにもなりました。

 スピリチュアリズムの立場からすれば、「頭でっかちになり過ぎ、霊的な存在をすべて物質的
な概念で説明し尽くそうとして自己矛盾に陥ってしまった」ということになります。目の前に厳然
たる霊的現象を見ながらも、それを霊魂の仕業と考えずに、陰陽の気の作用によって生じたも
のであると無理やり解釈しているのです。

霊魂の存在を認めず、あらゆる現象を陰陽の理論で説明しようとした結果、 “招魂儀式”にお
いて先祖の魂がやってくる事実を説明できないという内部矛盾を引き起こすことになってしまっ
たのです。

儒教の“魂魄説(こんぱくせつ)”

 一般的に儒教では、人間を精神と肉体の2つに分けて考えます。精神を支配するものを「魂
(こん)」、肉体を支配するものを「魄(はく)」と呼んでいます。 地上人はこの両者は一致してい
ますが、死ぬと魂魄(こんぱく)が分離し、魂は天へ上って空にとどまり、魄は地中(墓)にとどま
るようになると言います。

 儒教では、子孫が天(空)に漂う先祖の魂と、墓にいる先祖の肉体(魄)を、地上の子孫のい
る場所に呼び戻すことによって、先祖は再びこの世に現れることになると考えます。これが儒
教で最も重要視される“招魂儀式”であり、血縁関係のある子孫の集まりの中で厳かに行われ
ることになります。

それは血縁一族にとって、最も厳粛で重要な意味を持っています。こうした儀式を未来永劫
(みらいえいごう)にわたって執り行うためには、血縁が続き、子孫が繁栄することが絶対的に
必要とされるのです。

墓への異常なこだわり
 スピリチュアリズムでもインド仏教でも、肉体は地上かぎりの単なる道具であり、死ねば無用
のものとして、焼いて捨ててもよいと考えます。死んだ肉体には重要性を認めず、墓も特に必
要ないとしています。


 しかし儒教においては、死後も肉体は重要なものであり、骨はその肉体の象徴として大切に
扱わなければならないと考えます。「死体を粗末に扱い火葬に付すなど、とんでもない」というこ
とになります。死体は何としても埋葬(土葬)でなければならないのです。

 このような考えが、墓に対する強烈なこだわりを生むようになります。中国以上に儒教の伝
統が強く残っている韓国では、墓に対する極端な固執が、深刻な土地問題や土地をめぐって
の争いを引き起こすようになっています。

韓国では、死者一人当たりの墓地面積が、生者一人当たりの住宅の平均面積の3倍以上に
も上るといった異常な事態となっています。

 儒教的な要素をふんだんに取り入れた日本仏教においても、墓と骨をとても大切にするよう
になっています。
 第1章の最後に、スピリチュアリズムの観点から、シャカ仏教と日本仏教の内容をトータル的
に評価することにします。


 5 スピリチュアリズムから見た、シャカ仏教と日本仏教の評価
 
シャカ仏教についての評価
 まずシャカ仏教ですが、死後の肉体を意味のないものと考え、墓も不必要としている点で、ス
ピリチュアリズムと同じ見解に立っています。スピリチュアリズムでは、死後の肉体は朽ち果て
土に帰っていくのが当然であり、それが神の摂理であると考えます。

また仏教思想の大前提である「輪廻転生」についても、スピリチュアリズムの再生説との共通
性があります。ところが、その輪廻の内容となると仏教の見解は「霊的事実」から大きく懸け離
れ、とても正しいとは言えません。再生があるという点についてのみ正当性がある、ということ
です。

 輪廻についてのもう一つの問題は、輪廻の主体者が何であるのかが明確にされていないこ
とです。スピリチュアリズムでは「再生するのは自我の主体としての霊魂である」と明快に説明
しますが、シャカはその自我の実体である霊魂を否定しています。

そのためシャカの死後、大きな議論を巻き起こすことになりました。いずれにしても霊魂の存在
を認めないということは決定的な間違いです。 “霊魂説”によらない輪廻転生は事実ではあり
ません。

 輪廻を前提とするシャカ仏教では、先祖供養それ自体が成立しないことになります。しかし現
実には、人間は死後も霊魂として存在し、その中には“地縛霊”となったり“未熟霊”として地上
近くにとどまり続ける者もいます。

そのような霊達が、地上人に対してさまざまな悪事を働くことが現実にあるのです。スピリチュ
アリズムでは、地縛霊・未熟霊を救うことも必要であると考えていますが、シャカ仏教の立場に
立てば、こうした霊的事実もすべて無視することになってしまいます。この点では、儒教化され
た日本仏教の方が現実的であると言えます。

日本仏教についての評価
 では、日本仏教についてはどうでしょうか。日本仏教の中でも輪廻思想が語られています
が、それは先祖供養とは理論的に全く矛盾したものです。一般の信者からすれば、どちらを信
じたらよいのか混乱することになります。「輪廻」によって人間は救われるのか、あるいは「先
祖供養」によって救われるのかが明確ではありません。

一方を正しいとすれば他方は無視せざるを得なくなり、他方を正しいと見なせば、一方を間違
いとしなければならなくなります。
 
  日本仏教の実質は先祖供養であり、それは必然的に死後の霊魂の存在を前提としていま
すが、この霊魂については仏教内でも明確な見解がないのが実情です。しかし先祖供養の必
要性を認めている以上、シャカ仏教よりはスピリチュアリズムの霊魂説に近いと言えます。

 スピリチュアリズムから見たとき日本仏教の明らかな間違いは、死後の肉体への偏重です。
肉体は地上人生における単なる道具であり、死ねば火葬にして捨て去ってもかまいません。骨
にも特別な重要性はありません。墓は単なる骨の捨て場所としての意味しかないのです。

しかし日本仏教では、墓や骨をとても大切にしています。この点で日本仏教は、シャカ仏教に
大きく劣ることになります。死後、いつまでも自分の墓や骨にこだわっているような先祖霊はめ
ったにいません。霊的事実から見たとき、墓や骨にこだわる日本仏教は明らかに間違っている
と言えます。

 先祖供養を中心とする日本仏教におけるもう一つの大きな問題点は、先祖の罪が子孫に及
ぶという“因果観”です。そこから、先祖の罪を子孫が償うことによって先祖の悪因縁が切れ、
先祖は救われ、子孫の不幸も消滅すると考えるようになりました。

 これは因果律という「神の摂理(法則)」を血縁関係と結び付けた根本的な間違いで、そうした
霊的事実はありません。仏教の因果応報の考え方は、宗教心の篤い多くの日本人に常識の
ように定着していますが、間違いです。これについては後で詳しく述べることにします。


第2章   スピリチュアリズムから見た正しい先祖供養
           スピリチュアリズム的“先祖霊救済方法”
 

 日本人にとっては常識的とも言える先祖供養が、実は本来の仏教(シャカ仏教)とは無関係
なものであることが明らかになりました。インドから中国に伝わった仏教は、東北アジアのシャ
ーマニズムの衣を被(かぶ)った中国仏教となり、やがてそれが日本に伝来することになりまし
た。

 中国や朝鮮では、最終的に日本のように仏教が大きな勢力を持つことはありませんでした。
中国や朝鮮において宗教の支配的な立場に立ったのは儒教でした。人々は儒教によって、古
来からの先祖崇拝の慣習を維持してきました。このような背景を見るとき、「日本仏教の先祖
供養」と、中国や朝鮮における「儒教の先祖崇拝」は、本質的には同じものであることが理解さ
れます。

 大半の日本人にとって、先祖供養や墓参りは当たり前の宗教行事となっています。仏教と言
えば無条件に先祖供養や墓参りが頭に浮かびます。最近では若者の伝統的宗教離れが進む
ようになり、先祖供養や墓参りに無縁な日本人が徐々に増加するようになっています。

しかし日本人である以上、ほとんどの人々は一定の年齢に至ると、否応なく先祖供養に係わり
を持つようになります。普段は年寄の先祖供養を冷やかに眺めていた者達も、親の死を迎え
ると、いきなり葬儀や先祖供養の慣習の中に投げ出されることになります。

墓参りに行ったことのない者達も、年を経るとともに、親族や知人の葬式や法事に参加せざる
を得なくなります。結局、先祖供養など信じていなかった人も、従来の先祖供養の慣習に従うこ
とになるようです。

 さて、ここでは今日まで日本・朝鮮・中国で続けられてきた先祖供養・先祖霊崇拝の慣習を、
霊的事実の観点から考えてみたいと思います。先祖供養という慣習は、果たして意味があるも
のなのか? これまでの先祖供養で、本当に先祖の霊を救うことになっていたのか? もし先
祖供養が必要であるなら、どのような方法でしたらよいのか? こうした点について、霊的事実
に照らして考えてみたいと思います。

 幸いなことに私達は、スピリチュアリズムによってもたらされた多くの霊的知識と情報を手に
しています。そうした知識・情報によって、これまでならば決して知ることのできなかった霊界の
様子や、そこでの住人(霊達)の様子を詳細に知ることができるようになっています。

スピリチュアリズムによる知識・情報と照らし合わせることで、先祖供養や先祖崇拝の内容を
検討することができるようになっています。霊的世界の内容をチェックするというようなことは、
スピリチュアリズムが地上世界に登場したことによって初めて可能となったのです。

 ここではまず、平均的な地上人が死後、あの世でどのような経過をたどるのかを見ていきま
す。その過程で“地縛霊(じばくれい)”と言われる落伍者が存在するようになる事実を取り上げ
ます。重要な結論を先に述べることになりますが、スピリチュアリズムから見たとき「先祖供養」
とは、こうした地縛霊達を救済することに他なりません。

 次に、従来の先祖供養や先祖崇拝の儀式によって、先祖霊の救済が可能となっているのか
どうかを検討します。そしてスピリチュアリズムの観点から地縛霊達に対して、具体的にどのよ
うな救済手段を講じるべきかについて考えることにします。すなわちスピリチュアリズム的な先
祖供養の方法を明らかにすることにします。


 1 平均的人間の死の直後の様子
 

平均的人間の死後のプロセス
 地上から霊界に入っていくプロセスは、本人の霊的成長の度合や霊的知識の有無・地上で
の体験によって千差万別となります。決まった一律のプロセスというものはありません。聖人と
言われるような人間と、単なる普通の人間、また極悪非道な人間が、死後全く同じ道筋をたど
るようなことはありません。

とは言っても大部分の平均的男女、長所も短所も持ったごく普通の人間(*一般的に言う善
人)には、ほぼ共通した傾向が見られます。 ここではそうした常識的人間・平均的人間がたど
る死後のコースを見ていくことにします。そのコースは次のようになります。

死の睡眠からの覚醒 → 死の自覚(霊的意識の目覚め)→ 迎えの霊達との対面 → 幽界
の休息所へ行く → 幽界の審判に臨む → 幽界での本格的な生活の開始


@死の自覚と、迎えの霊達との対面
 霊体と肉体を結んでいたシルバーコードが切れると、いよいよ幽界(*霊界の下層世界)に
入ることになります。肉体から離れ霊体だけになる瞬間は、本人は半睡眠状態で、ほとんど意
識を失っています。死に際しての苦悶の表情や身もだえの様子を見るのは、死を看取る地上
人にはとても辛く、いたたまれない気持になりますが、当の本人は何の苦しみも痛みも感じて
いないのが普通です。

 死の睡眠から目覚めると、ある人は、自分にそっくりな人間が横たわっているのに気がつき
ます。そしてその周りに、先程まで自分の死に立ち会っていた人々が泣いている姿が見えま
す。そこで集まっている人々に語りかけたり肩を叩いたりするのですが、誰も気がついてくれま
せん。大半の人間はこうした状況に非常に戸惑い、不安に駆られ、混乱するようになります。
やがて、「ひょっとして自分は死んだのではないか?」と思うようになります。

 死んだことを自覚すると、すでに他界している親族や兄弟・知人が目の前に現れるようになり
ます。実はこうした親族達は、死に際してずっと付き添い、新しく霊界入りするための手伝いを
してくれていたのです。本人に死の自覚ができると“霊的視野”が開け、周りにいた人々の姿が
見えるようになるのです。

*死から死の自覚(霊的意識の目覚め)までの長さは、人によってさまざまです。霊格や知識・
地上での習性によって、時間が長くなったり短くなったりします。死の自覚ができると同時に霊
的意識の目覚めがもたらされるようになります。
 死の眠りから覚めても、混乱状態がひどかったり、なかなか死を自覚できないときには、再び
死の眠りを継続させるような状態に置かれます。眠りを通して、調整と自覚が促されることにな
ります。



A幽界の休息所
 親族や知人達の歓迎を受け、しばらく彼らと対話を交わした後、出迎えにきてくれた中の一
人(*地上時代の守護霊または知人が多い)に連れられて休息場所に行くことになります。そ
こで安らかな半睡眠状態で、休息をとるのです。

 死んで間もない新参者は、いまだ地上の波動を持ち続け、すぐに霊界になじむことができま
せん。そのため休息所で、自分の身体や精神を霊界に適応させるための調整が行われること
になるのです。その間に、霊体にまとわり付くように残っていた“幽質接合体”の残滓(ざんし)
は脱ぎ捨てられ、 霊体(幽体)だけの存在になっていきます。

B幽界での審判
 休息場所ではこうした適応プロセスが進行する一方、半醒半夢(はんせいはんむ)の状態(ま
どろむような状態)で地上時代の自分の体験を見せられることになります。自分の目の前に、
地上時代のさまざまな出来事がドラマのように展開していくのです。

それを、より高い指導霊のインスピレーションの影響を受けながら見つめ、地上時代のすべて
の行為を自ら査定することになります。これがいわゆる「霊界での審判」と言われているもので
す。

 そこでは「霊的法則」の働きによって、自分で自分を審判し裁くことになります。他の霊が審
判し裁くのではありません。地上の裁判のような討議も証拠提出も、一人一人に対する査問な
どという手間もなく、地上時代のもろもろの行いの霊的価値がひとまとめに明らかにされ、即座
に結果が出るようになっています。


*従来の宗教で言われてきた“閻魔大王”による裁きというような事実はありません。先入観
にとらわれた霊能者が、あの世の閻魔による審判があるかのように言うことがありますが、そ
れはすべて自分自身の想念の世界での出来事を事実と錯覚したものです。

 霊界(幽界)での審判における反応は、人それぞれ大きく異なっています。霊界に入ると地上
時代のあらゆる見せかけが剥(は)がれ落ち、自我が素っ裸にされます。 これはある者にとっ
ては、たいへんなショックです。それによって、自分の地上時代の何が間違っていたのかが少
しずつ理解できるようになります。

 霊界の審判は、人によっては屈辱となったり、逆に喜びとなったりします。地上時代には絶対
に自分の非を認めなかったひねくれ者も、霊界では必ず間違いを悟るようになり、おのずと罪
の大きさを自覚するようになります。と同時に地上とは異なり、一切のごまかしや言訳が効か
ないことが分かるようになるのです。

 霊界の審判では、自らが裁判官となって、自分で自分を裁くことになりますが、そのときの判
決の基準は――「地上で何を行ったのか、世の中のためにどれだけ自分を役立てたのか」と
いうことです。まさに地上での「利他的行為」が判決の基準となるのです。

 こうして身体と意識の調整、並びに地上人生の反省というプロセスを経ることになりますが、
それは多くの場合、地上の時間にして数日〜数週間 (*早い人で3〜4日)で完了するようで
す。そして、いよいよ幽界での生活が始まることになります。

 事故などで突然死した者は、霊的にも大きなショックを受けているため、一般の他界者よりも
長期の死の眠りが必要となります。霊界の病院などで十分な眠りをとらせ、ゆっくりと霊界の生
活に適応させていきます。そうしないと、後で述べる“地縛霊”になることがあるからです。霊界
では新しい他界者を地縛化させないために、全力を挙げてケアーが行われています。
 これまで述べてきたことを整理すると、次のようになります。


平均的他界者は、霊界の人々にとっては“問題児”
 生前から死後の世界のあることを信じ、霊的世界に対する知識を持っていたような人の場合
は、シルバーコードが切れて死の眠りから目覚めると、先に他界していた人々の出迎えを受け
ることになります。彼らは歓声を挙げて、本人の霊界入りを喜んでくれます。

眠りからの覚醒と同時に霊的意識が蘇(よみがえ)り、 霊的視野が開かれるために、待ち受け
ていた霊界の人々の姿をすぐに認識できるのです。地上時代に「霊的知識」を身につけておく
ことが、いかに大切であるかということです。

 これまで平均的な人間の死後のプロセスを見ましたが、実はこの平均的な人間は、霊界に
対する最低の知識も、基本的な霊的真理も知らないのが普通です。霊界から見たとき、地上
世界における平均的な人々・大半の人々は、霊的存在としての常識的な内容さえ持っていな
いということです。

 彼らは“霊的な問題児”であり、死後に、霊的世界に対する適応期間・準備期間としての休息
が必要となります。彼らのために霊界の人々は、たいへんな労力を費やさなければなりませ
ん。特に戦争などの異常事態においては、さらに多くの手間や面倒がかかることになります。

霊的に無知な人々は、地上では平均的な人間であっても、霊界から見れば最低のことさえ身
につけていない人間なのです。彼らは、本来は地上で学んでおくべきこと・準備しておくべきこと
を、霊界に入ってゼロからやり直さなければならないのです。

 シルバーバーチが――「こうしている間でも、地上から何百万・何千万という人間がこちらへ
送られてきますが、そのほとんどが死後への準備が何もできていないのです。みんな当惑し、
混乱し、呆然自失の状態です。それで我々が、いろいろと手を焼くことになります。

本当はそちらで霊的教育を始めるほうが、はるかに面倒が少なくて済むのです」(最後の啓
示・79)と言っているのは、こうした平均的な他界者に対してのことなのです。

 地上で霊的真理になじみ、霊界に対する知識を持っているなら、霊界に入ってからの適応時
間は短くなり、霊的進化の道に入っていくまでのプロセスは短縮されます。「地上で霊的真理を
学ぶ」ということは本当に大切なことなのです。

その点で“スピリチュアリスト”は、霊界入りのプロセスを最もスムーズに歩むことができる可能
性を持っています。死の目覚めと同時に、迎えに来てくれた多くの人々と歓喜の対面をするこ
とができ、その後の調整期間も短いのが普通です。
  
 2 幽界入りのプロセスの落伍者――“地縛霊”
 

地縛霊になる他界者
 以上は、平均的な人間の死の直後のプロセスでした。大半の他界者はこうした経過をたどっ
て幽界に入り、そこで新しい生活を出発することになります。しかし中には、幽界に入っていけ
ない落伍者も出ることになります。

彼らは死の眠りから覚め、周りに出迎えの家族や知人がいても、夢を見ているのだと思い込
み、自分が死んだことを認めようとしません。それどころか迎えに来た人々が、「あなたはもう
死んでいるのですよ」と教えても、「自分はこうして生きている」と反論し、怒り出す始末なので
す。

 このような人間に共通するのは、死んだらすべては終わりになるという強烈な唯物的考えを
持っている、ということです。彼らの多くは地上人生を、物質的な満足や本能的快楽だけを追
求して過ごしてきました。そのため極端に物欲性が強く、一切の霊的要素・霊的内容を受け入
れることができなくなっています。先に述べた平均的な他界者と比べると、霊的世界に対して閉
鎖的なのです。

 平均的な他界者の場合も、生前は霊界のあることを知らなかった人が大半なのですが、唯
物的指向がそれほど強くなく、ただ単に無知であったということなのです。そうした人は、霊界
に入ってその現実に直面すると、事実をありのままに受け入れるだけの柔軟性を持っていま
す。

 それに対して霊的世界の実在を認められない落伍者は、結局、地上世界の近くにとどまるこ
とになります。これがいわゆる“地縛霊”です。地縛霊の数は平均的な他界者と比べるならば
少数ですが、幽界の下層には地縛霊が集まるようになり、絶対数としてはかなりの数に上りま
す。地上近くには、こうした霊達がうようよしているのです。


 地縛霊の内容はさまざまです。また地縛霊になった原因や置かれている状況も一人一人異
なりますが、ある種の共通性も見られます。次に“地縛霊”を、いくつかのケースに分けて見て
いくことにします。

さまざまな地縛霊のケース
<ケース@>
 地上時代に一度も、心から他人を愛したことがなかったような人間は、死とともに暗闇の孤
独の中に置かれます。自分の心の頑(かたくな)さが、霊的視野を遮(さえぎ)り、 霊的な光を
全く受けつけることができないからです。それは丁度、自分で自分の目に“目隠し”をしている
ような状態です。その暗さは地上の夜の暗さとは比較になりません。まさに“漆黒(しっこく)の
闇”と言ったらいいでしょう。

 そのような「絶対的孤独の状態」に置かれるのは、少数の他界者に限られます。よくよくの利
己主義者・極悪非道の人間・冷酷無情の独裁者・暴君といった者を除いては、こうしたケース
はめったにありません。

<ケースA>
 弁解の余地がないような動機から自殺した人間も、しばらくは極悪非道の人間と同じような真
っ暗闇の中に置かれることになります。彼らは地上での苦しみや恥かしさに耐えきれずに自殺
したものの、死後にはそれ以上の大きな苦しみを味わうことになります。しかも本人には、その
苦しみが永遠に続くように思われるのです。

 それでも何とか「暗黒の境涯」を抜け出すと、今度は幽界の最下層において“地縛霊”として
生きることになります。そうした地縛霊の中には、自分が死んだことに気がついていない者も多
く、地上人に憑依(ひょうい)してその意識を支配し、自殺するように仕向けることもあります。

 自殺そのものは神の摂理・法則に背いた行為ですが、その動機によって罪悪性は軽重さま
ざまです。なかには国家のため・人々のためという理由から、自殺という手段を選んだ人もい
ます。

その場合には、同じ自殺でも動機に利他性があるため、霊界で最悪レベルの地縛霊として、
いつまでもとどまるようなことはありません。暗闇の境涯に置かれるのは、徹底した利己主義
から出た自殺者です。

 また“憑依霊”の仕業によって自殺に追い込まれたような人の場合、やはりしばらくは暗闇に
置かれますが、 “自殺”という行為の責任をとらされることはありません。責任は自殺に引きこ
んだ霊の側にあり、自殺した者がその責任を負うことはないのです。この場合は本人の霊性に
もよりますが、霊的な目覚めは早くやってくるのが普通です。

<ケースB>
 これといって極端に邪悪な性格をしているわけではないのですが、死後の一連の適応プロセ
スに乗りきれずに地上近くにとどまってしまう者達もいます。彼らも地上時代には霊界の存在
を認めず、霊的なことには一切関心を向けず、ただ物欲・肉欲を追い求めるだけの生活に終
始してきました。

 こうした者達は、自分が死んだことに気がつきません。すでに他界している家族や親族・知人
の出迎えを受けても、依然として「自分は生きている」と主張し、死んだことを認めようとしませ
ん。そして薄暗いもやの中を歩き回り、地上時代と同じ物欲・肉欲を求め続けるのです。

自分でつくり上げた幻影(まぼろし)を手に入れようとひたすら追いかけ、つかんだと思った瞬
間にそれが目の前から消え去るという空しいことを繰り返しています。

 彼らはまた、相も変わらず快楽を求めて地上近くをうろつき回り、自分と同じような欲望に浸
っている地上人に取り憑いて、その快楽を間接的に体験しようとします。

<ケースC>
 地縛霊の中には、これまで述べてきたのとは別種の存在もいます。それが「宗教への盲信」
に由来する地縛霊です。地上時代に“間違った教え”を潜在意識の中に強烈に植え込んでしま
ったために、死後も正常な霊的覚醒ができなくなっているケースです。

 そうした地縛霊となるのは、地上時代に熱心に信仰してきた者に限られます。例えばキリスト
教徒の場合には“最後の審判”が現実に起こると思い込み、自分が死んだことを認めようとし
ません。そして同じ信仰を持った者同志で教会に集まり、祈りの時を持ち、終末の復活の日が
くるのを待ち続けるのです。間違った宗教の弊害は、地上においてばかりでなく、このように霊
界に行ってからも続くことになります。
 以上述べた地縛霊のケースを整理すると次のようになります。

 以上、いくつかの地縛霊のケースを見てきましたが、すでに他界している皆さん方の先祖や
血族の中にも、このような地縛霊となっている者がいる可能性があります。 “地縛霊”とは、仏
教で教える「成仏しない霊・地獄に堕ちた霊」のことです。

むろん従来、宗教で言われてきた地獄というような仕切られた世界は、霊界には存在しませ
ん。 “地獄”とは、地縛霊となって苦しむ霊達の心が生み出す主観的世界であり、自らつくり上
げた境遇に他なりません。

 すでに他界した先祖や血縁者の中に“地縛霊”となっている者がいる場合には、彼らを救うこ
とが必要となります。それが「先祖供養」の本当の意味なのです。神はこうした落伍者に対して
も、見捨てることなく更生の道・救済の道を示されるのです。

 では“地縛霊”となった他界者は、霊界でどのようにして更生の道をたどっていくことになるの
でしょうか。次にそれを見ていくことにします。


 3 地縛霊に対する救済プロセス
 

 地上近くにたむろする地縛霊の存在は、地上人に悪い影響を及ぼします。それは当然、スピ
リチュアリズムに係わる高級霊にとって悩みの種となっています。地縛霊という存在は、霊界
全体にとって何としても無くさなければならない汚点なのです。神の造られた霊界は「利他愛の
支配する世界」であり、こうした未熟な霊達にも“救いの道”が示されることになります。

冷酷で極端な利己主義者に対する更生の道
 先に述べたように、地上時代を冷酷無情な独裁者や暴君、あるいは極端な利己主義者とし
て過ごし、多くの人々を苦しめたり犠牲にしてきたような者は、いきなり「暗黒の境涯」に置かれ
ることになります。

そして半ば強制的に、地上での悪行の数々を目の前に見せつけられるようになります。それは
本人にとって逃れられない苦しみと後悔を引き起こします。「神の摂理」によって、地上でなした
悪事が、それに見合った苦しみをもたらすのです。

自分が苦しめてきた犠牲者と同じ目に遭わされることになるのです。暗黒の環境の中で、気が
狂わんばかりの苦しみを味わい、七転八倒し、地獄そのものの時を過ごすことになります。 

 しかし彼らにも、やがて転機が訪れます。これまでのような「完全に孤独な闇の境涯に居続け
るのか」、それとも「再生の道を選ぶのか」という選択肢が示されることになります。そして大半
の霊達は後者を選ぶことになります。彼らにとって地上への再生は、神の摂理の働きによるあ
る種の救済の道と言えます。

 こうした再生のケースは、本人には選択の余地がないような半強制的な形で執行されていく
ことになります。地上への再生の道を歩み出すと言っても、決して楽な人生が待っているわけ
ではありません。

彼らの中には、再生の地上人生を白痴として過ごすようになる者もいます。また他人に与えた
のと同じ苦しみを体験するために、辛く虐(しいた)げられた、惨(みじ)めな人生を歩むようにな
る者もいます。

 いずれにしても地上的観点からすれば、最も不幸な地上人生を送ることになりますが、それ
によって過去の罪が少しづつ清算され、霊的進化の道を歩み出すことができるようになるので
す。

自殺者に対する更生の道
 利己的な動機から自殺したような場合、極端な利己性が閉鎖的な壁をつくり出し、外部との
交流が遮断(しゃだん)されることになります。また霊的視野・霊的意識が全く閉ざされているた
め、霊的光を受けられず、自らつくった暗闇の中に身を置くことになります。今述べた非情な独
裁者や暴君のケースと同じように、「暗黒の境涯」で苦しみの時を過ごすのです。

 霊的な暗黒世界の中で苦しむうちに、少しづつ意識に変化がもたらされるようになります。や
がて暗黒の境涯を抜け出し、幽界の下層で“地縛霊”として生きることになります。地縛霊とし
てどのような歩みをするかは、一人一人異なっており、共通のパターンはありません。

 さて自殺した他界者に対しても、霊界では上層から絶えず救済のための霊達が差し向けら
れます。利他愛の支配する霊界では、どのような落伍者に対しても愛の思いが向けられていま
す。

 しかし自殺者のように、自らつくり出した暗闇の中に自分自身を閉じ込めているような場合
は、救済を任務とする霊達にもなす術(すべ)がありません。 霊的に完全に閉ざされた彼らと
の間には接点がなく、接触さえできないために手の下しようがないのです。

苦しみ抜く中で本人の意識が変化するのを待つしかありません。結局は、自らつくった罪に苦
しむことが、彼ら自身を救う道となるのです。苦しむことで、罪を償うことになっているのです。


*あまりにも利己性が強くて霊的意識の目覚めが得られないような自殺者の場合は、独裁者
や暴君のケースのように地上への「半強制的な再生」というプロセスを踏むことになるかも知れ
ません。
 一方、利他的動機から自殺の道を選んだ場合は、暗黒の境遇も短期間に抜け出すことがで
きます。意識がもともと開かれているために、霊界での“救済霊の声”を受け入れることができ
るからです。また、その後も地縛霊になることはほとんどありません。

地縛霊の意識の変化と、幽界の救済霊達
 霊的意識が芽生えず、自分のつくり上げた世界に閉じ込められている地縛霊達を救済する
のは並大抵のことではありません。彼らの意識が変化し、自分でつくり出した幻想の世界を自
ら抜け出したいと思わないかぎり、周りからは手の施しようがないのです。

 彼らが自分なりの世界に飽き、苦痛を感じて「もっと別の所に行きたい」と思うようになれば、
その時が救済霊にとって働きかけのチャンスです。外部からの働きかけが、初めて地縛霊の
心に届くことになります。

 すでに述べたように、地縛霊となった者達を救済するために、霊界では上層から降りて救済
活動に携わる多くの霊達がいます。地上近くでは、こうした救済霊達が活発な活動を展開して
いるのです。

そこでは「物質的意識・本能的意識」だけに縛られた地縛霊達に対して、「霊的意識」を自覚さ
せるために、ありとあらゆる手段が講じられています。彼らに意識の変化が生じるようになれ
ば、その機会を逃さず、さらなる働きかけがなされるようになります。 

 救済の任に当たるのは、自らその役目を買って出た霊や、地縛霊となっている者の地上時
代の家族や知人達です。ときには生前の守護霊や類魂の一員が、任務に携わることもありま
す。救済霊達は何とかして、哀れな地縛霊を地獄から救い出したいと必死に働きかけます。

 地縛霊としての状態は、時に何百・何千年にも及ぶことがありますが、それは特に稀なケー
スです。霊界に入りながら、いつまでも物質的意識を持って生活を続けることは不可能だから
です。大半の者達が、自分自身でつくり出している幻影の生活に飽きを覚え、嫌気がさすよう
になります。

やがてそれが苦痛に変わり、「何とかここを抜け出したい!」と思うようになっていきます。いず
れどのような地縛霊にも、そうした意識の変化が訪れるようになるのです。

地縛状態から抜け出す最後の試練――“妨害霊”との闘い
 霊的意識に目覚め始め、地縛的境遇を抜け出したいと思うようになっても、すぐにそれが実
現することはありません。彼の周りには、これまでの仲間達(*地縛霊となっている邪悪霊や
未熟霊)が集結し、本人を取り囲んで元に引き戻そうとするのです。

 これと同じようなことは、この世にも見られます。いったん暴力団や暴走族に入って悪事を働
けば、そこから抜け出すには大きな苦痛がともないます。悪事を重ねた者ほど、自分を取り巻
く環境から足を洗うのに、たいへんな妨害や困難と闘わなければなりません。

地上時代になした利己的行為は、依然“罪”として本人の上に残されています。それが多けれ
ば多いほど、地縛状態から抜け出すための苦痛が増すことになります。

 実は、悪の道に引き戻そうとする邪悪霊の妨害は、向上を願う霊にとっての“罪滅ぼし”にな
っているのです。明るい世界を求めて暗闇を抜け出すための苦しい闘いは、今までの悪事に
対する罪の清算プロセスになっているのです。

必死に妨害の壁を乗り越えようとする苦労と闘いを通して――「善を指向する心と、悪への反
発心が強められる」ことになります。自分で犯した利己主義の罪は“妨害に苦しむ”という犠牲
を払うことで償われ、魂が清められることになるのです。

 その試練は、何度も何度も与えられます。繰り返し繰り返し忍耐が試され、さらなる悲しみ・
後悔・絶望を体験しなければなりません。地縛霊は、神の定めた「因果律」によって自分の悪
事に見合った苦しみを味わい、罪を償うことができるのです。それによって、やっと霊的進化の
道・救いの道を歩み出すことができるようになります。ここで述べたことを整理すると次のように
なります。


 4 スピリチュアリズムおける先祖供養とは
 ――地縛霊となった先祖霊の救済
 


先祖供養とは、“地縛霊”となった先祖を救うこと
 以上、幽界の下層における地縛霊の様子と、彼らが更生していく過程について見てきまし
た。霊界における厄介な問題の一つは、この地縛霊の存在ですが、彼らも今述べたように、い
つまでも地獄の境涯に放って置かれることはありません。

いずれはすべての霊が、向上進化の道をたどるようになります。自らの霊的無知と利己性ゆ
えに「暗黒の地獄で苦しむ」という罰を受け、更生のチャンスが与えられることになるのです。

 今回のニューズレターのテーマは「先祖供養」です。スピリチュアリズムの観点から見た先祖
供養とは、地縛霊となっている先祖を救済するということに他なりません。 仏教的に言えば、い
つまでも成仏できずに地上近くにとどまっている先祖霊、地獄に堕ちている先祖霊を救うという
ことです。

何十代にわたる血縁関係者の中には、地縛霊となっている者がいるかも知れません。そうした
先祖を救い出すことが先祖供養の目的なのです。

 とは言っても、親が嫌がる子供の手を無理やり引っ張っていくというような形で、地縛化した
先祖を救うことはできません。これまで見てきたように、地縛霊自身の心が変化しないかぎり、
外部からは全く手の施しようがないのです。

自分の罪は自分で償い、自分の救いは自分でなすというのが神の摂理なのです。そうした条
件が満たされたとき、初めて救済の使命を担って働く霊達の援助を受け、暗黒の地縛世界か
ら解放され、明るい世界に向上していくことができるようになるのです。

先祖供養の対象となる先祖霊は、どのくらいいるのか?
 時の経過とともに、地縛霊も必ず進化の道をたどり始めるようになります。なかには何百年・
何千年もの間、地縛霊として低い世界にとどまる者もいますが、それは例外であって、わずか
な数に過ぎません。

先祖の中には、かつては地縛霊であった者がいるかも知れませんが、何百年以上も経って、
いまだに地縛霊のままでいるというケースは、それほど多くはないはずです。このように考える
と、供養の対象者となる先祖はあまりいない、ということになります。

 ただし死後、さほど時間が経っていない他界者の中には、地縛状態に堕ちている者がいる可
能性があります。地上時代を物欲追求だけで終わり、霊的成長とは全く無縁な人生を送った
者は、地縛霊となって苦しんでいるかも知れません。つまり先祖供養の対象となるのは、死後
さほど時間の経っていない者が中心になる、ということなのです。

地縛化した先祖の救済は、霊界サイドで責任を持って進められる
 地縛霊の更生は――「罪を償うために地上へ再生する」というケースと、「幽界の下層での苦
しみを通じて罪の償いをする」という2つのケースがあることを述べました。地縛霊がそうした更
生の道をたどろうとするとき、彼らを手助けし、向上の道を踏み出せるように導く霊達が遣わさ
れることになります。

地縛霊は、救済霊やすでに他界している血縁者・知人の霊達の援助によって、地縛状態から
抜け出すことができるようになります。

 とは言っても、地縛霊の救済が簡単に行われるものでないことは、すでに述べたとおりです。
地縛の状態から解放されるには、まず当の本人に意識が変化する時期がきていることが大前
提なのです。本人の意識が自己閉鎖的状況から抜け出したいと思わないかぎり、救済霊にも
手の施しようがありません。

 苦しみの中から、地縛霊の頑(かたく)な心に変化が生じたとき、救済霊はスクリーンに本人
の地上生活を映し出して反省を促し、さらなる意識の変化を引き出そうとします。また必要に応
じて幽界の休息所や病院に連れていって心を癒したり、霊の世界に適応させるプロセスを踏ま
せたりします。

救済霊達は、こうしたさまざまな働きかけをして地縛霊の更生に当たります。その結果、彼らは
向上進化の道を歩み出すことができるようになるのです。 

 以上のように、地縛霊の救済のための援助は、霊界サイドの万全の体制のもとで確実に進
められています。常に可能なかぎりの救済策が講じられています。 このような霊の救済活動の
実態が分かると、地上人がこれまで先祖供養としてやってきたことは、ほとんど意味がなかっ
たことが分かります。

霊能者や祈祷師・宗教者が、祈祷や除霊を行い、それによって「先祖が成仏した」「地縛状態
を脱した」などと言っても、そんな言葉をまともに信じてはなりません。安直な救済方法などない
のです。彼らの言うことは、すべてインチキか、勝手に救われたと錯覚しているだけなのです。

地上人の先祖供養の役割は?
 このように先祖霊の救済に対する働きかけは、霊界においてその大半が進められることにな
ります。地上サイドから、あれこれ手出しするようなことは、ほとんどないのです。ましてや霊界
の存在を信じていないような僧侶が先祖供養のための念仏を唱えても、それが地縛霊の更生
によい影響を与えることはありません。 “低級霊のからかい”を、わざわざ引き出すような結果
にしかなりません。

 では、地縛霊となった先祖霊を救済するために、地上人ができるようなことはないのでしょう
か。彼らを更生させるために、何らかの手助けはできないのでしょうか。実は、地上人が先祖
霊の救いに間接的に貢献できる道が残されています。それが次に述べる「愛の念を送る」とい
うことと、地縛霊に「真理を語って聞かせる」ということなのです。 


地上人ができる先祖供養
  @ 愛の念を送る
  A 真理を語って聞かせる


愛の念を送る
 地上人が地縛霊となった先祖を救うためにできる手助けの一つは――「地上から愛の念を
送る」ということです。縁故ある地上人からの祈りの波動と、そこに含まれる愛のエネルギー
は、地縛霊となった先祖霊達にプラスの影響を及ぼすことになります。

地上の子孫から送られた愛のエネルギーが、暗闇の中で苦しむ彼らに届き、閉ざされた意識
に変化を促すことになります。その愛の念が、地縛霊の心を慰め、孤独の境遇が間違いであ
るとの自覚と反省心を引き出す助けとなります。

また他界直後の不安定な状態にある血縁霊には、地上の子孫からの念が、霊的目覚めと休
息化を促し、地縛霊となるのを防ぐことになります。

 こうした地縛霊や他界直後の未熟霊達には、地上人の念は届きやすいのです。高級霊の愛
の念は、未熟霊には強すぎて、まぶしさや苦痛を与えることになります。それに対して地上人
の祈りには物質性がともない、波動が粗い分だけ、かえって地縛霊に届きやすくなっているの
です。地上人の祈りが地縛霊の心に伝わって、変化のきっかけをつくり出し、救済霊の接近を
可能にするかも知れません。

 もっとも地上人の祈りの念があの世の霊に影響を与えると言っても、肝心な地上人自身が霊
的真理に無知であったり、死別を嘆き悲しんでいるような状態では、どれだけ祈ったり読経をし
ても、よい結果を生むことはありません。むしろ不安定な念が他界した霊に届き、動揺を与え
ることになってしまいます。

 地上から霊界の霊に働きかけるについては、地上人が霊界の存在に確たる信念を持ち、霊
的世界に対する知識を持っていることが不可欠です。そして死を悲しみではなく、喜びと祝福
の時として認識するだけの霊的洞察力を持っていなければなりません。先祖供養には「正しい
霊的知識」が必要なのです。

 たくさん念仏を唱えたら先祖が救われるというようなことではありません。僧侶を呼んで法事
を欠かさずに行なえば、地縛霊となった先祖が救われるというようなことではありません。大切
なことは――「地上の子孫が正しい霊的知識を持ち、純粋な思いやり・利他愛を持って愛の念
を送る」ということなのです。

念を送る形式は、祈りであっても、読経であっても、優しい語りかけであっても何でもよいので
す。愛の念とエネルギーを送ることができるなら、手段は問題ではありません。

 霊界の事実を知ってみると、これまで行われてきた先祖供養によって地縛霊となった先祖が
救われたケースは、ほとんどなかったことが明らかになります。大半の人々が当たり前のもの
と思っている先祖供養は、やってもやらなくても、どちらでもいいようなものだったということで
す。
 ただ例外的に、心が清らかで思いやりのある人(霊性が高い人)が仏壇や墓前で読経すると
き、その読経には愛の念が込められ先祖霊に届くといったようなことがあったかも知れませ
ん。それが地縛霊の心を喜ばせ、意識の変化を促したかも知れません。

それは地上人の霊性の高さと、その人間から発せられる愛の念が、先祖霊によい影響をもた
らしたということです。ただしこの場合でも、読経する本人が霊的知識を持っていたなら、先祖
霊に及ぼす影響力は、さらに大きくなっていたことは言うまでもありません。

真理を語って聞かせる
 地上人が先祖の救済に関与することができるもう一つの方法は―地縛化した先祖霊に「真
理を語って聞かせる」ということです。地縛霊となった先祖が、無意識のうちに霊障を引き起こ
すことがあります。

 先祖の霊が夢の中にたびたび現れたり、あるいは霊媒に乗り移って出てきて、自分の置か
れている状況や、地上の子孫への恨みつらみを語ったりすることがあります。自分の地上時
代を後悔したり、位牌や墓について注文してくることもあります。

子孫がそうした先祖霊の訴えを聞いて、位牌や墓をつくり替えたり、希望する供物を供えると、
これまで続いていた現象がピタッと止まることがあります。こうしたことが現実に起こるために、
先祖供養は必要なものであるという認識が広まることになってしまいました。

 先祖霊が霊障を引き起こすというケースは、霊本人の意識が依然として地上時代のままであ
り、何ら変化・向上していないことを示しています。地上時代の宗教的慣習をそのまま持ち続
け、霊的意識に全く目覚めていないことを証明しています。

 このような霊の注文を、地上人が何でも聞き入れるということは、決してよいことではありませ
ん。相手の程度の悪い要求に応じて一時の満足を与えるというのは、その場かぎりの対処方
法であって、根本的な解決方法ではありません。それは丁度デパートで、おもちゃが欲しくて泣
きわめく子供に、仕方なくおもちゃを買って与えるのと同じことなのです。

 地縛状態にいる霊に対しては、威厳を持って――「あなたはすでに死んでいる以上、墓も位
牌も必要ないのです」「地上のことに、いつまでも意識を向けていてはいけません」と教え諭して
あげるべきなのです。もし相手の心に変化の訪れる時期がきているならば、それが目覚めの
きっかけになります。

さらに「そばにいる人達の指導を受けて、これまでのことを反省し、向上の道を歩んでください」
と言い聞かせます。霊的自覚が芽生えかけているならば、その瞬間に霊界の救済霊の姿が見
えるようになります。もちろんそうした教えや諭しが相手の心に響くには、霊自身に時期がきて
いることが大前提となります。

 いずれにしても、同情心と誠意を持って相手に訴えることが大切です。祈りとして語りかけて
も、読経の中にそうした諭しを込めても、あるいは霊媒を通して霊を呼び出し直接話しかけて
も、どのような方法であってもかまいません。

霊を説得するには、地上人が地縛霊以上に霊界についての知識を持っていることが必要で
す。そうであってこそ、初めて説得が可能となるのです。ここでも「霊的知識」が絶対的に必要
となるのです。

 地上人ができる先祖供養とは、どこまでも霊界の救済活動の応援程度のことでしかありませ
ん。しかし、それでも状況によっては、霊界で救済活動に携わる霊達に大きな援助をすること
になります。実はこうした地縛霊の救済活動をサポートすることも、地上のスピリチュアリストと
しての役目なのです。


 5 「先祖の罪を子孫が償う」という考えの間違い
 

 先祖供養を中心とする日本仏教における大きな問題点の一つが、「先祖の罪が子孫に及
ぶ」という因果観いわゆる“因果応報”の思想です。そこからさらに子孫が徳を積み、先祖の罪
を代わりに償うことによって先祖は救われ成仏し、子孫の不幸が消滅するようになるという考
え方を生み出すことになります。これが“回向(えこう)”と言われる思想です。

 宗教心の篤い多くの人々は、その回向の思想を無条件に受け入れ、先祖を救うために必死
になって毎日読経や写経をしたり、墓掃除や仏事に熱心に取り組んだりします。また競って、
お寺にお布施や寄進をしたりします。

 スピリチュアリストの中にも、先祖の因縁が子孫に影響を及ぼすという因果応報の考えや、
子孫の徳積みによって先祖の霊を成仏させるという考えに共鳴する人々がいます。スピリチュ
アリズムでは、「因果応報の法則(因果律)」が神の摂理として明らかにされています。

そのスピリチュアリズムの因果律と、仏教の因果応報の教えが同じものであると錯覚している
のです。

 しかし、先祖の罪が子孫に悪因縁として伝わるという事実はありません。また先祖が犯した
罪を、子孫が代わって償うことができるということも真実ではありません。スピリチュアリズムが
明らかにしているのは――「自分が犯した罪は自分で償う」「自分が犯した罪は他人に償って
もらうことはできない」という因果観なのです。

先祖の犯した罪が子孫に及ぶこともないし、先祖が犯した罪を子孫が償うこともできない、とい
うことなのです。それが厳然とした霊的事実なのです。

 他人の金銭的負債を自分が代わって支払うことはできますが、他人が犯した霊的な罪は、誰
も代わって償うことはできないのです。先祖供養を一生懸命にすれば先祖の罪が償われ、先
祖が救われ、地上の子孫の不幸が取り除かれるといった考えは、霊的には何の根拠もない作
り話であって錯覚なのです。それは地上の人間が勝手につくり出した考えに過ぎません。

 そうした間違った思想は的外れの先祖供養を生み出し、地上の子孫に自己満足だけを植え
付ける結果となっています。それどころか、先祖供養を悪用した不正な金儲けという社会問題
を引き起こすことにもなっています。

先祖供養に名を借りた、さまざまな悪徳商法が至るところで横行しています。先祖の悪因縁を
切ると嘘をついて多くの人々から多額の金銭を巻き上げた“霊感商法”は、記憶に新しいとこ
ろです。

 因果応報の法則を、先祖の犯した罪の償いと結び付けることは根本的な間違いであり、日本
仏教における大きな問題点です。先祖供養と因果応報を結び付けた考えが誤りであることは、
次回のニューズレター(22号)で述べる「霊界の事実」と照らしてみるとより明白になります。ま
た回向の思想の問題点は、スピリチュアリズムの「運命観」や「救済観」という根本的な部分に
係わってくるので、別の機会にニューズレターで取り上げることにします。


 6 “おもちゃ”が必要な人には……
 
 これまでの話の内容から、従来「先祖供養」の名前で行われてきたことには、ほとんど何の
意味もなかったことが明らかになりました。またスピリチュアリズムの観点から見たとき、どの
ようにすることが本当の先祖の救いになるのかということも理解できました。

シルバーバーチは、地上の宗教における儀式や慣習を、たびたび“おもちゃ”に譬えています。
そして霊的真理を知った人々に対して、いつまでも無意味なおもちゃで遊ぶことがないようにと
述べています。

 スピリチュアリストは「霊的事実」を知ったことで、おもちゃから卒業することができるようにな
ったのです。スピリチュアリストは、この世の葬式や墓・先祖供養といった慣習を超越できなけ
ればなりません。自分が死んだときには、派手な葬式も墓も供養も不要であることを表明すべ
きでしょう。

それを遺言(ゆいごん)として残すのも、いいかも知れません。ただし「自分の遺骨はどこどこに
撒(ま)いてほしい」などと散骨の場所を指定するのは、むしろ“こだわり”でしかありません。骨
を捨てるのは、山でも海でも野原でもどこでもいいのです。

まかり間違っても、「飛行機から撒いてくれ」などと愚かなことは言わないことです。スピリチュア
リズムを通じて霊的事実を知った以上、私達は無意味な慣習に、いつまでも縛られていてはな
りません。

 とは言っても、それをいまだ真理を知らない人々に強要するようなことをしてはなりません。こ
れまで家族や親族の間に引き継がれてきた慣習を、自分の一存で一方的に捨て去ってしまう
必要はありません。

家族の中に先祖供養を重要視している人がいるなら、その人には気の済むように、それを続
けさせてあげることです。いまだにおもちゃを大切にしている人に対しては、広いところからそ
っと眺めていることです。

 私達スピリチュアリストは、そうした寛容さを持つべきです。葬式や先祖供養というさして重要
でないこの世の“おもちゃ”をめぐって、人々と無駄な争いを引き起こすような馬鹿げたことをし
てはなりません。

外見上は今までどおり、適当にお付き合いしておけばいいことですし、頑(かたくな)に従来の
慣習への参加を拒む必要はありません。真実を知った者は心の中で、「霊的事実」にそって一
人、正しい死者への手向(たむけ)けと先祖供養を行えばいいのです。

 次回のニューズレターでは、「先祖供養」に関連するさまざまな霊的問題を取り上げることに
します。先祖供養や招魂儀式には、霊界にいる霊達との交わり・交信・触れ合いといった現実
的な霊的問題がともないます。この点からすれば、先祖供養は一種の招霊会と見なすことがで
きます。
 先祖供養の霊的背景や霊的事実を、より広く学ぶことにします。


スピリチュアリズム・ニューズレターについて


 素晴らしい季節を迎えました。とは言いましても“花粉症”に苦しむ方にとっては辛い季節です
が……。梅の花を満喫した次は、いよいよ桜の花です。毎年、満開の桜の美しさを見ると、宇
宙にみなぎる生命力・霊的エネルギーの活力を実感し、限られた地上世界でスピリチュアリズ
ムを知ったことへの感謝の思いが湧き上がってきます。神と霊界の存在を知ればこそ、地上
世界の美しさを、さらに深く味わうことができます。

 先回のニューズレターの「国家破産」の内容について、大勢の方々からご質問が寄せられて
おります。そのほとんどが国家破産に備えて、どんな準備をすべきかというものです。国債暴
落から国家破産が表面化し悪性インフレになるのか、あるいは株の暴落から銀行が破綻して
金融不安が生じ、政府が防衛のために大量の新札発行に踏み切ることでインフレが起きるの
か、どのように推移していくかは定かではありませんが、いずれ近い将来、破局がくることだけ
ははっきりしています。その時になれば、現在のデフレ騒ぎなど、実に小さなものであったと実
感することになるでしょう。

 ドルが暴落しないならば、手元にドルの現金を持っておくことは最低限の自衛策になるでしょ
う。円での預金を止めて、海外の信頼できる銀行に預金したり、金(ゴールド)にしておくこと
は、資産を守るための常套手段です。

また生活必需品や食料は、最悪の事態では唯一の頼りとなります。その入手ルートを今のうち
からつくっておくことです。こうしたことについては多くの本が出ていますので、各自で勉強し対
策を講じてください。今なら十分間に合います。

 連日、イラク問題と北朝鮮問題がマスコミに大きく取り上げられています。米英軍によるイラ
ク攻撃に反対して、世界中で反戦デモが繰り広げられています。わざわざイラクに“人間の盾”
となるために出かけながら、危険な場所を指定されて、あわてて帰ってくるといった笑い話が報
道されていました。

 世論調査によれば、日本人の8割近くが国連による査察継続を支持し、米英による攻撃は
すべきでないと考えていることが明らかにされています。多くのマスコミも、反戦平和を支持し、
米英の攻撃に反対し批判しています。しかし、こうした多数の人々やマスコミは、今回の問題
の本質を間違ってとらえているように思われます。

 米国や英国を含めて、初めから武力行使が最良の方法だと考える国も指導者もいません。
誰もが「戦争反対、平和賛成」なのです。ところが今回のイラク問題は、そうした理想論を掲げ
て論じる問題ではありません。

査察をさらに続けるべき、国連決議を経るべきとの意見は筋が通っているように聞こえます
が、そこでは多分に“独裁者の邪悪性”という一番の核心部分が見落されています。今回のイ
ラク問題は、何よりもまず「独裁者の存在についての是非」と、そうした「独裁者が大量殺戮兵
器を持つことへの是非」から論じられるべきものなのです。

 霊的真理から見れば、独裁者は最もエゴイストであり、自分の身の安全や利益・プライドを守
るために、平気で国民を際限なく犠牲にします。自分に反対する者は容赦なく拷問にかけ殺害
します。独裁者こそは、まさしく人類の最大の敵なのです。

そうした人間が大量殺戮兵器を持ち、それによってすでに多くの人々を殺した前科があるので
す。さらには長期にわたって国連決議を無視して、国連査察に協力してこなかったのです。長
い目で見たとき、最もひどい犠牲をもたらすのは“独裁者の暴挙”であって、それを抑止するた
めの武力行使ではありません。

 率直に言えば、フセイン大統領一人が決意さえすれば、すべての問題は解決するのです。米
英の武力攻撃に反対するより、フセイン退陣要求こそが筋の通った平和活動なのです。フセイ
ン大統領一人がいなくなれば、世界も国民もずっと幸せになるのです。

 霊的真理が共通の規範となっていない現在の地球では、理想は今すぐには実現しません。
そうしたところで理想だけを唱えることは、単なる偽善的正義感に過ぎませんし、独裁者に利
益をもたらすだけの結果に終わってしまいます。

霊的真理が地上人類の規範となっていない段階では、常にどちらが大悪であり、どちらが小悪
であるのかを判断することが重要です。2つの悪のうち、よりましな方を選択するしか許されな
いのが現実なのです。武力を背景としてしか平和を維持できないのが、霊的に未熟な地球の
実情なのです。

 アメリカとイラクとが大量殺戮兵器を持ったとするなら、どちらの方が将来、世界を危険に陥
れる可能性が高いでしょうか。悲惨な戦争を引き起こす危険性は、アメリカとイラクとでは、ど
ちらが大きいでしょうか。もし戦争になったとき、一般市民の犠牲を最少限にとどめようとする
努力は、どちらがするでしょうか。

 選挙で100%の国民が独裁者を支持するような国に、果たして最低限の人権が保証されてい
ると言えるでしょうか。独裁者が国民のために自分を犠牲にするのか、反対に自分のために
国民を最後まで犠牲にするのかは明白です。もし皆さんが、アメリカかイラクのどちらかで一生
過ごせと言われたら、どちらを選択するでしょうか。

 『 Two Worlds(ツーワールズ)』の3月号で、トニー・オーツセンは―「スピリチュアリストの中に
は反対する人もいるであろうが、自分はアメリカとイギリスが、国連の同意なしであってもイラク
を攻撃することを支持する」といった内容を述べています。

そしてその理由として、殺人鬼的な独裁者の有害性を挙げています。我々は物質世界に住ん
でおり、そこでは時に、より明るく平和な未来を勝ち取るための戦いにおいて、物質的手段が
唯一の方法となることもあると述べています。

 こうしたことについては今回は問題提起するにとどめ、いずれニューズレターで取り上げるこ
とにします。(3月20日記)



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